日本教育心理学会第57回総会

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ポスター発表

ポスター発表 PB

2015年8月26日(水) 13:30 〜 15:30 メインホールA (2階)

[PB042] 仮説実験授業のたのしさを決めるもの(2)「仮説実験的認識論」

主客統合型認識論がもつ可能性

守屋明佳 (仮説実験授業研究会)

キーワード:仮説実験授業, 認識論, 主体

問 題
本研究では,教師が期待する科学的知識の深い理解を生徒達の自発性に待ちつつ実現している「仮説実験授業」(板倉聖宣,1969)を取り上げ,その楽しさの理由を考える。「仮説実験授業」では「問題-予想-討論-実験」というプロセスが一連の問題について繰り返され,学習者の概念変化が促される。最終的には特定の科学的概念・原理・法則の正しい理解が目指されるのだが,〈授業書〉に具体化された探求の楽しさは成績に依らず生徒達を惹きつけ(例,板倉・小原・中,2014,41頁),科学者をも感動させる(佐伯・藤田・佐藤,1995,104頁)。その楽しさを,今回はこの授業を支える「認識論」に焦点を当てつつ考察する。仮説実験授業が果たしている「認識論的転換」が,この授業の種々の楽しさの根底にあると考えるためだ。
考察(1)教育界に必要な認識論的転換
教育界に根強い認識論に経験主義的「白紙説」がある。知識は客観的に主体の外に位置するもので経験を通じて初めて獲得され,その経験以前には心には何も書かれておらず白紙状態だというものだ。であればこそ教育は必要であると考えられ,経験主義者ロックに先駆けて教育学者コメニウスも白紙説を唱えていた(加藤尚武,2012,142頁)。又,行動主義的な条件付け学習論も,その妥当性を要求できた。しかし,認識を考えるにあたって認識主体の側の主観的要因を顧慮しない白紙説には明らかな誤りがある。認識主体に適切な〈構え〉(期待,予想,仮説など)がなければ,「観察」(vs「知覚」)も成立しない(吉村七郎,1969,渡辺慶二,1969)。認識を外界の単なる「反映」とみなす客観主義は,思想史上も長らく批判の対象となってきた(例,加藤,2012)。以下では,仮説実験授業が前提としている,主観・客観を統合した認識論「仮説実験的認識論」(板倉)について考える。
考察(2)「仮説実験的認識論」(主客統合型認識論)
板倉は,客観主義を批判するが,しかし主観主義的認識論を提案する訳ではない。真理の客観性や科学の客観性について語ることは止めない(例,板倉,1992,95頁)。彼の認識論「仮説実験的認識論」は,「科学的認識は自分自身の〈仮説〉をもって対象に目的意識的に問い掛ける〈実験〉によってのみ成立する」(板倉,2004,157頁)というもので,主観の作用と客観の作用を科学的認識の中で統合している。認識が主体による「目的意識的な問い掛け」から始まるという意味において,仮説生成は主観や党派性の影響を免れ得ないが,科学的真理は実験が決定するのであり,その意味で主観や党派性の外にあるとする(板倉,1992,96頁)。認識は受動的な過程ではなく,主体を前提としている。このような認識論に依拠すると授業の何が変わるだろうか。仮説実験授業に即して考える。
まず第一に,授業の問題構成は〈主体が持つ「素朴理論」からの出発〉を許すものとなる。素朴理論との対決を経ずに「習われ」「貼りつけられた」知識は活用できずに死蔵される(守屋慶子,2000,68頁)が,素朴理論との対決を構造化している授業ではそうならない。素朴理論から出発でき,自分が自らの思考の主人公になれる授業は,成果も上げるが楽しくもある。第二に,認識の主体を重視すると,「実験」の前には必ず「予想」を立てさせることになる。従って実験は実験器具の単なる操作に終わらない。又,立てる予想は生徒ごとに異なっている。通常,科学といえば常に一つの「正解」だけを学ばされている生徒達にとって,それは聞くだけでも楽しい相違となるようだ(村西正良,2015)。加えて,予想の当否は実験で明らかになるのだからそれまでは何を考えてもよいという自由を生徒達は手に入れる。「科学は大いなる空想を伴う仮説から始まる」(板倉)。生徒達は互いのアイデアを楽しみ,参考にする。第三に,「討論」が重視されよう。仮説実験授業では予想を立てたら互いに質問しあい討論するが,例えばそれは自分達の考えをつき合わせ,絡み合ったアイデアを解きほぐし,個々のアイデアのレレバンスを吟味しながら,矛盾点があるのならそれを見つけ出す為である。そのようにしてより正しい理解への足掛かりを見つける。「水に溶けて見えなくなった砂糖は『なくなった』。重さはない」とする生徒Aが,「水が甘いのは砂糖が中に『ある』からだ。重さはある」という生徒Bの言葉に「砂糖は甘いさかい甘くなってるんや」と応じる展開で(守屋慶子,1982,99頁),Aは自らも認めざるを得ない砂糖水の甘さに改めて気づき,砂糖が「水に溶けてもなくなったわけではない」ことを理解する可能性を手に入れる。「甘いなら『ある』」「『ある』なら重い」という推論にAが辿り着くことができたのはBとの討論のためだが,この討論がなければAは実験を理解することなく(「なんで? 見えへんやん」)実験結果を覚え込むことになっていたかもしれない。Aは,実験結果と整合的で,かつ自分にも理解可能な考え方をBとのやり取りで獲得していたからこそ,自分にとっては反証の実験結果にも納得でき,塩を水に溶かす次の実験では正しい予想が立てられたのである。(砂糖水の「実験」結果はAの次なる一歩の為の必要条件ではあっても十分条件ではなかった。反証という「客観」はそれのみでは役立たなかった)。仮説実験授業での討論が,互いに重なり合う生徒達の「発達の最近接領域」(ヴィゴツキー)内で展開するために〈学び手の腑に落ちる思考〉の交流を可能にし(同,110頁),素朴理論から科学的理論への切れ目のない移行を可能にしていることにも注意を喚起したい。こうした討論を生徒達は楽しむ。第四に,認識主体を忘れなければ,「実験」が真の意味での実験になる(板倉,2008,105頁)。実験は自分の予想を確かめるためのものであり,異なる予想の当否を確認するためのものだ。結果を待つ「ドキドキ」感は強烈だ(同,139頁)。生徒実験を繰り返してきた生徒達が,仮説実験授業を経験するまでは「実験などしていなかった」と答えるという(同,105頁)。通常の授業では,実験,つまり仮説検証の楽しさを,生徒達は発見させてもらえていない。
主客統合型認識論を採用すると,仮説実験授業の授業法則とは一見矛盾する「ユニーク・パス(path)」(斉藤萌木による発見。三宅芳雄&三宅なほみ,2014,162頁)のような現象や,「よい問題」が常に討論を引き起こすわけでないことにも説明がつく。「問題」(客観)の価値は「所与」ではなく,生徒達自身(主観)もその決定に関わっている(守屋明佳,未発表)。
主客統合型認識論の必要性は明らかだろう。認識は受動の別名ではない。主体を疎外する学習はたのしくない。生徒達が認識の〈主体〉であることの意味を,今一度考え直したい。