15:30 〜 17:30
[JC07] 大学数学への認知心理学的接近
心理学は大学数学をどう扱えるのか?
キーワード:大学数学
企画趣旨
Bruer(1993)が,認知科学と教育実践との関係は,生理学と医学の関係と同様であると指摘しているように,認知心理学・認知科学の役割の一つに教育実践への貢献がある。実際,この30年ほどの間に,教科学習プロセスを認知科学的なアプローチで解明する研究が様々に進められて来た(岡本, 2016)。しかしながら,これらの潮流から取り残され,認知科学的なアプローチでほとんど解明されていない未知の研究領域として,大学数学の認知・学習プロセスがある。
海外においては,Lakoff & Núñez(2001)が,高等数学もまた身体化されていることや,複数の概念をブレンドすることによって,高等数学の概念を理解しているといった理論を提唱している。ただ,彼らの理論は,どちらかというと認知哲学に依拠した議論であり,実証的なデータに基づくものではない。
心理学,特に実験心理学は,実証科学であることに重きをおいてきたが,高等数学のような高度に抽象的理解をそもそも研究対象とすることが可能かどうなのかについても議論が分かれるであろう。一方で,大学数学も一つの教育的営みであると考えれば,それにつながる知見を心理学からも提供できる可能性はあるのではないだろうか。
今回のシンポジウムでは,近年,大学数学に関する研究に着手している3人の研究者から話題提供し,大学数学に認知科学的アプローチでどのように迫れるのかについて,指定討論の方々,フロアの皆さんと一緒に議論してみたい。
「『文系』大学生の数学信念と問題解決に見られる傾向」
犬塚美輪(大正大学人間学部)
日本の多くの高等学校では,途中から履修コースを「文系」「理系」に分けており,文系の生徒は「文系」大学への進学を選択する。これらの生徒は数学に苦手意識を持っており,動機づけも高くないと言われている。受験科目に数学が必須とされていない大学を選ぶことも多い。一方,社会科学領域をはじめとして,専門領域の学修と研究において数学が必要なことも少なくない。そのため,「文系」大学における数学教育では,こうした学生の特徴を踏まえた指導が必要とされている。上述したように,「文系」大学生の数学学習には,感情的な側面も大きく関わっており,認知心理学的な観点からの考察が必要である。
そこで本発表では,「文系」大学生の数学信念と問題解決に見られる傾向に注目する。数学信念とは,「数学とはどのような学問か」という数学の本質に関する個人的な信念を指す(犬塚, 2016)。数学の価値や活用に関する望ましい数学信念を育成することは,それ自体が重要な教育目標として位置づけられている。また,数学信念は問題解決行動にも影響すると考えられる。例えば,Schoenfeld (1985)は,幾何の問題解決における学習者の「経験主義的(empiricism)」的な信念が学習者の不適切な問題解決行動に関連していることを示し,数学問題解決過程におけるヒューリスティックの選択に信念が影響することを指摘している。
犬塚(2016)では,大学初年次生を対象とした数学信念の概念化を行ない,「困難性」「固定性」「有用性」「思考プロセス」という4因子から数学信念が説明できることを示した。犬塚(2016)からは,本発表で取り上げる「文系」大学生の特徴として,思考プロセスの尺度得点が相対的に低く,「数学を思考プロセスとして捉えない」傾向があることが読みとれる。また,固定性の尺度得点が相対的に高く,「答えややり方が決まった固定的なものと捉える」傾向があることが分かる。
では,数学信念と問題解決はどのように関連しているのだろうか。Schoenfeld(1985)は問題の分析と少数の学習者の解決プロセスの検討から信念とヒューリスティックの関連を示しているが,本発表では,上述した枠組みを用いて「文系」大学生の信念を捉え,問題解決に見られる特徴との関連を議論する。
「Mathematical Mental Representation Test for University Studentsの開発」
岡本真彦(大阪府立大学現代システム科学域)
最近の数認知の研究においては,個人の持っている数表象の精緻さが,様々な算数・数学の成績と関連することが報告されるようになってきている(Baley, et al., 2012; Okamoto & Wakano, 2008など)。これらの知見からは,大学数学においても,学生の持っている数学表象の違いによって,大学数学の理解が異なってくることが推察されるが,それらを調べた研究は見当たらない。そこで,本研究では,大学入学時の数学表象の個人差を測定するためのMathematical Mental Representation Test for University Studentsを開発する。
まず,最初に,大学生の持っている数学表象を明らかにするために,高等学校までの数学の学習内容から,一つの数学事象を文字・式表現か図表現で表した一対の項目が同じであるかどうかを判断するというテスト項目を96組作成し(図1),iPadソフトウェアとして実装した。
その上で,大学生37名を対象として,調査を実施した。Mathematical Mental Representation Testでは,反応時間と反応の正誤が記録される。
反応の正誤を用いて,96問のテスト項目をクラスター分析したところ,「解析・数列・虚数」,「数的表現・数的処理」,「多表象結合」の3つのクラスターが見出された。そこで,これら3つのクラスターに含まれる問題の平均正答率,平均反応時間とセンター試験の数学Ⅰ・AとⅡ・Bの得点との相関を算出したところ,反応時間よりも正答率の方が,センター得点との相関が高く,特に,「解析・数列・虚数」と「多表象結合」正答率は,センター得点と.35〜.46程度の相関を示した。また,「数的表現・数的処理」と「多表象結合」の反応時間は,センター得点と.17〜.27程度の弱い相関を示した。
これらの結果から,多表象結合と命名した,数学事象に対して多面的な表象を結合できている学生が数学の学習が容易になる可能性があるといえよう。
「線形代数の概念理解過程のモデル化」
川添 充(大阪府立大学高等教育推進機構)
高等数学を対象とする数学教育研究において,線形代数は「認知的にも概念的にも学習困難な科目」(Dorier & Sierpinska, 2001)とされているが,その認知的概念的困難さを克服する教授法開発のためには,線形代数で扱う数学的概念の理解過程を明らかにする必要がある。本発表では,これまで取り組んできた2つの研究を報告する。
第1の研究は,線形代数の1年間の授業内容の理解過程についての検討である。この研究では,1年間の小テストに含まれる43問に対する77名の学習者の解答傾向を分析し,理解過程のモデル化を試みた。データとしては,正誤に加えて,概念誤りや計算誤りなどの誤答の質的分類も行った。これらのデータをもとに,小テストの各問題への反応パターンを用いた学習者に対するクラスター分析,問題への学習者の反応データ(正誤のみ)を用いた問題に対するクラスター分析を行うとともに,問題間の概念的関連性に基づいて,線形数学の理解過程のモデル化を行った(図2)。
これらの分析から,(1)線形代数のつまずき方には,a.計算手続きの習得でつまずくタイプと,b.ベクトル空間の抽象概念の習得でつまずくタイプの2つのタイプが見出せること,(2)問題の概念的関連図の中に正答・誤答について有意な関連性を示す結合が連続して繋がる理解ルートとして,a.行列式の計算を中心として行列の対角化へ至る理解ルート,b.連立1次方程式の解法を中心として1次写像の像と核の基底と次元に至る理解ルートなどの複数の理解ルートが見出されること,などの結果が得られた。
第2の研究は,3次元空間での直感的な概念理解についての研究である。この研究は,既存研究が平面や3次元空間での概念の直感的理解を前提として,それらをどう拡張・一般化して抽象ベクトル空間での概念理解に繋げるかを議論していることに対する疑問を出発点としている。現在,3次元空間でのベクトルの1次独立性の直感的な概念理解について調査・分析を進めている。
認知心理学的なアプローチにより,線形代数の学習の困難さの要因を科学的に捉えることができれば,認知的概念的困難さを克服する教授法開発のヒントが得られるのではないかと期待している。
Bruer(1993)が,認知科学と教育実践との関係は,生理学と医学の関係と同様であると指摘しているように,認知心理学・認知科学の役割の一つに教育実践への貢献がある。実際,この30年ほどの間に,教科学習プロセスを認知科学的なアプローチで解明する研究が様々に進められて来た(岡本, 2016)。しかしながら,これらの潮流から取り残され,認知科学的なアプローチでほとんど解明されていない未知の研究領域として,大学数学の認知・学習プロセスがある。
海外においては,Lakoff & Núñez(2001)が,高等数学もまた身体化されていることや,複数の概念をブレンドすることによって,高等数学の概念を理解しているといった理論を提唱している。ただ,彼らの理論は,どちらかというと認知哲学に依拠した議論であり,実証的なデータに基づくものではない。
心理学,特に実験心理学は,実証科学であることに重きをおいてきたが,高等数学のような高度に抽象的理解をそもそも研究対象とすることが可能かどうなのかについても議論が分かれるであろう。一方で,大学数学も一つの教育的営みであると考えれば,それにつながる知見を心理学からも提供できる可能性はあるのではないだろうか。
今回のシンポジウムでは,近年,大学数学に関する研究に着手している3人の研究者から話題提供し,大学数学に認知科学的アプローチでどのように迫れるのかについて,指定討論の方々,フロアの皆さんと一緒に議論してみたい。
「『文系』大学生の数学信念と問題解決に見られる傾向」
犬塚美輪(大正大学人間学部)
日本の多くの高等学校では,途中から履修コースを「文系」「理系」に分けており,文系の生徒は「文系」大学への進学を選択する。これらの生徒は数学に苦手意識を持っており,動機づけも高くないと言われている。受験科目に数学が必須とされていない大学を選ぶことも多い。一方,社会科学領域をはじめとして,専門領域の学修と研究において数学が必要なことも少なくない。そのため,「文系」大学における数学教育では,こうした学生の特徴を踏まえた指導が必要とされている。上述したように,「文系」大学生の数学学習には,感情的な側面も大きく関わっており,認知心理学的な観点からの考察が必要である。
そこで本発表では,「文系」大学生の数学信念と問題解決に見られる傾向に注目する。数学信念とは,「数学とはどのような学問か」という数学の本質に関する個人的な信念を指す(犬塚, 2016)。数学の価値や活用に関する望ましい数学信念を育成することは,それ自体が重要な教育目標として位置づけられている。また,数学信念は問題解決行動にも影響すると考えられる。例えば,Schoenfeld (1985)は,幾何の問題解決における学習者の「経験主義的(empiricism)」的な信念が学習者の不適切な問題解決行動に関連していることを示し,数学問題解決過程におけるヒューリスティックの選択に信念が影響することを指摘している。
犬塚(2016)では,大学初年次生を対象とした数学信念の概念化を行ない,「困難性」「固定性」「有用性」「思考プロセス」という4因子から数学信念が説明できることを示した。犬塚(2016)からは,本発表で取り上げる「文系」大学生の特徴として,思考プロセスの尺度得点が相対的に低く,「数学を思考プロセスとして捉えない」傾向があることが読みとれる。また,固定性の尺度得点が相対的に高く,「答えややり方が決まった固定的なものと捉える」傾向があることが分かる。
では,数学信念と問題解決はどのように関連しているのだろうか。Schoenfeld(1985)は問題の分析と少数の学習者の解決プロセスの検討から信念とヒューリスティックの関連を示しているが,本発表では,上述した枠組みを用いて「文系」大学生の信念を捉え,問題解決に見られる特徴との関連を議論する。
「Mathematical Mental Representation Test for University Studentsの開発」
岡本真彦(大阪府立大学現代システム科学域)
最近の数認知の研究においては,個人の持っている数表象の精緻さが,様々な算数・数学の成績と関連することが報告されるようになってきている(Baley, et al., 2012; Okamoto & Wakano, 2008など)。これらの知見からは,大学数学においても,学生の持っている数学表象の違いによって,大学数学の理解が異なってくることが推察されるが,それらを調べた研究は見当たらない。そこで,本研究では,大学入学時の数学表象の個人差を測定するためのMathematical Mental Representation Test for University Studentsを開発する。
まず,最初に,大学生の持っている数学表象を明らかにするために,高等学校までの数学の学習内容から,一つの数学事象を文字・式表現か図表現で表した一対の項目が同じであるかどうかを判断するというテスト項目を96組作成し(図1),iPadソフトウェアとして実装した。
その上で,大学生37名を対象として,調査を実施した。Mathematical Mental Representation Testでは,反応時間と反応の正誤が記録される。
反応の正誤を用いて,96問のテスト項目をクラスター分析したところ,「解析・数列・虚数」,「数的表現・数的処理」,「多表象結合」の3つのクラスターが見出された。そこで,これら3つのクラスターに含まれる問題の平均正答率,平均反応時間とセンター試験の数学Ⅰ・AとⅡ・Bの得点との相関を算出したところ,反応時間よりも正答率の方が,センター得点との相関が高く,特に,「解析・数列・虚数」と「多表象結合」正答率は,センター得点と.35〜.46程度の相関を示した。また,「数的表現・数的処理」と「多表象結合」の反応時間は,センター得点と.17〜.27程度の弱い相関を示した。
これらの結果から,多表象結合と命名した,数学事象に対して多面的な表象を結合できている学生が数学の学習が容易になる可能性があるといえよう。
「線形代数の概念理解過程のモデル化」
川添 充(大阪府立大学高等教育推進機構)
高等数学を対象とする数学教育研究において,線形代数は「認知的にも概念的にも学習困難な科目」(Dorier & Sierpinska, 2001)とされているが,その認知的概念的困難さを克服する教授法開発のためには,線形代数で扱う数学的概念の理解過程を明らかにする必要がある。本発表では,これまで取り組んできた2つの研究を報告する。
第1の研究は,線形代数の1年間の授業内容の理解過程についての検討である。この研究では,1年間の小テストに含まれる43問に対する77名の学習者の解答傾向を分析し,理解過程のモデル化を試みた。データとしては,正誤に加えて,概念誤りや計算誤りなどの誤答の質的分類も行った。これらのデータをもとに,小テストの各問題への反応パターンを用いた学習者に対するクラスター分析,問題への学習者の反応データ(正誤のみ)を用いた問題に対するクラスター分析を行うとともに,問題間の概念的関連性に基づいて,線形数学の理解過程のモデル化を行った(図2)。
これらの分析から,(1)線形代数のつまずき方には,a.計算手続きの習得でつまずくタイプと,b.ベクトル空間の抽象概念の習得でつまずくタイプの2つのタイプが見出せること,(2)問題の概念的関連図の中に正答・誤答について有意な関連性を示す結合が連続して繋がる理解ルートとして,a.行列式の計算を中心として行列の対角化へ至る理解ルート,b.連立1次方程式の解法を中心として1次写像の像と核の基底と次元に至る理解ルートなどの複数の理解ルートが見出されること,などの結果が得られた。
第2の研究は,3次元空間での直感的な概念理解についての研究である。この研究は,既存研究が平面や3次元空間での概念の直感的理解を前提として,それらをどう拡張・一般化して抽象ベクトル空間での概念理解に繋げるかを議論していることに対する疑問を出発点としている。現在,3次元空間でのベクトルの1次独立性の直感的な概念理解について調査・分析を進めている。
認知心理学的なアプローチにより,線形代数の学習の困難さの要因を科学的に捉えることができれば,認知的概念的困難さを克服する教授法開発のヒントが得られるのではないかと期待している。