[PA28] 授業における三項関係
対話主義授業論の立場から
Keywords:授業論, 対話
目 的
Trevarthen & Hubley(1978)の第2次間主観性の提唱に始まる,<主体−世界−他者>の形作る三項関係について,その乳幼児期における意義についてはよく知られている。また三項関係の重要性は対話に関する学際的な研究領域である対話主義(dialogism)でもよく指摘されている。しかし<学習者−世界(教材)−教授者>からなる三項関係の成立が教育を対話的な性格にしていくための鍵であることについては,これまでの対話主義授業論(dialogic pedagogy)の中でも明確には指摘されてきていない。ここでは日本の教育の実践知に学びながら,対話的な授業を分析するための枠組みとしての三項関係を明確にしようとする。
発達心理学で
Trevarthenたちの提唱以来,共同注意の言語獲得などへの意義がいわれ、多くの研究があるのは周知の通りである。教育との関係ではTomaselloが個体発生のレベルで(Tomasello, et al, 2005),また人類史のレベルで(Tomasello, 2014)展開しているshared intentionalityについての議論が重要である。その発達についてTomasselo(2014)ではjoint intentionalityから文化的な実践が慣習化することをとおしてcollective intentionalityへと発達するとし,教育を後者で出現するものとしている。この場合,教育は制度となった文化を教えるものとしてのみ捉えられることになってしまう点に問題がある。ただしこれらの研究のみならず,関連した研究としてCsibra & Gergley (2005)により大人のpedagogy(教授)的態度が発達研究の中で明示的に位置づけられている点は評価できる。
対話主義研究(dialogism)で
ここで対話主義とはバフチンなどを源流とする対話に関する研究領域である。対話というとそれに参加している複数の参加者間のみの関係のように考えられてしまうが,対話主義の研究では対話は三項関係からなるとされる(Linel,2009)。バフチンは,明示的には発話について三項関係を考えている。たとえばバフチン(1985)では,ある発話者がある対象について発した言葉は,その対象について他の発話者が発してきた言葉とぶつかるとする。そこに対象を巡る対話が始まる。これに対しMarkova(2003)などは対話を自己(ego)と他者(alter)の在り方に関わる存在論的な地平で捉えるが,認識論的には対象(object)がego-alterの両者によって知られるという三項関係があるとする。
教育場面で
教育場面も学習者と教授者が世界(教材)について共に学ぶ三項関係として存在することで対話的になると考えられるが,この点を明示的にした理論は存在していないようである。教育(心理学的)研究では,<学習者−教材−教授者>の三項関係で捉えず,「学習者の教材理解(の不十分さ)の研究」「教授者と学習者のクラスでの社会的関係性の研究」「(教授者にとっての)教材の研究」(教科教育)といったようにばらばらな関係で捉えていることが多い。
むしろ実践者の発言に,三項関係の方向への把握がある。斎藤喜博(1975/1995)による「教師も子どもも,教材に対して自分の持っているものを,自分の主体をかけたものとして相互に出し合い,お互いに吟味しあっていくものである」という発言はその一つの例である。このような発言の中に,子ども(学習者)と教師が教材に対し対等の立場で対話し学んでいく,という対話的な教育への方向性がある。
バフチン,M. M. 望月哲男・鈴木惇一(訳)(1995). ドストエフスキーの詩学. 筑摩書房.
Csibra, G., & Gergely, G.(2005). Social learning and social cognition: The case for pedagogy. In M. H. Johnson, & Y. Munakata (Eds.), Processes of change in brain and cognitive development. Attention and performance, XXI. Oxford: Oxford University Press.
Linel, P. (2009). Rethinking language, mind, and world dialogically: Interactional and contextual theories of human sense- making. Charlotte, NC: Information age publishing INC.
Markova. I. (2003). Dialogicality and social representations: The dynamics of mind. Cambridge: Cambridge University Press.
斎藤喜博 (1975/1995). 授業と教材解釈.一莖書房.
Tomasello, M., Carpenter, M., Call, J., Behne, T., & Moll, H.(2005). Understanding and sharing intentions: The origin of cultural cognition. Behavioral and brain sciences, 28, 675-735.
Tomasello, M. (2014). A natural history of human thinking. Cambridge, MA: Harvard University Press.
Trevarthen, C., & Hubley, P. (1978). Secondary intersubjectivity: Confidence, confiding and acts of meaning in the first year. In M. von Cranach, K. Foppa, W. Lepenies, & D. Ploog (Eds.), Human ethology: Claims and limits of a new discipline. Cambridge: Cambridge University Press.
Trevarthen & Hubley(1978)の第2次間主観性の提唱に始まる,<主体−世界−他者>の形作る三項関係について,その乳幼児期における意義についてはよく知られている。また三項関係の重要性は対話に関する学際的な研究領域である対話主義(dialogism)でもよく指摘されている。しかし<学習者−世界(教材)−教授者>からなる三項関係の成立が教育を対話的な性格にしていくための鍵であることについては,これまでの対話主義授業論(dialogic pedagogy)の中でも明確には指摘されてきていない。ここでは日本の教育の実践知に学びながら,対話的な授業を分析するための枠組みとしての三項関係を明確にしようとする。
発達心理学で
Trevarthenたちの提唱以来,共同注意の言語獲得などへの意義がいわれ、多くの研究があるのは周知の通りである。教育との関係ではTomaselloが個体発生のレベルで(Tomasello, et al, 2005),また人類史のレベルで(Tomasello, 2014)展開しているshared intentionalityについての議論が重要である。その発達についてTomasselo(2014)ではjoint intentionalityから文化的な実践が慣習化することをとおしてcollective intentionalityへと発達するとし,教育を後者で出現するものとしている。この場合,教育は制度となった文化を教えるものとしてのみ捉えられることになってしまう点に問題がある。ただしこれらの研究のみならず,関連した研究としてCsibra & Gergley (2005)により大人のpedagogy(教授)的態度が発達研究の中で明示的に位置づけられている点は評価できる。
対話主義研究(dialogism)で
ここで対話主義とはバフチンなどを源流とする対話に関する研究領域である。対話というとそれに参加している複数の参加者間のみの関係のように考えられてしまうが,対話主義の研究では対話は三項関係からなるとされる(Linel,2009)。バフチンは,明示的には発話について三項関係を考えている。たとえばバフチン(1985)では,ある発話者がある対象について発した言葉は,その対象について他の発話者が発してきた言葉とぶつかるとする。そこに対象を巡る対話が始まる。これに対しMarkova(2003)などは対話を自己(ego)と他者(alter)の在り方に関わる存在論的な地平で捉えるが,認識論的には対象(object)がego-alterの両者によって知られるという三項関係があるとする。
教育場面で
教育場面も学習者と教授者が世界(教材)について共に学ぶ三項関係として存在することで対話的になると考えられるが,この点を明示的にした理論は存在していないようである。教育(心理学的)研究では,<学習者−教材−教授者>の三項関係で捉えず,「学習者の教材理解(の不十分さ)の研究」「教授者と学習者のクラスでの社会的関係性の研究」「(教授者にとっての)教材の研究」(教科教育)といったようにばらばらな関係で捉えていることが多い。
むしろ実践者の発言に,三項関係の方向への把握がある。斎藤喜博(1975/1995)による「教師も子どもも,教材に対して自分の持っているものを,自分の主体をかけたものとして相互に出し合い,お互いに吟味しあっていくものである」という発言はその一つの例である。このような発言の中に,子ども(学習者)と教師が教材に対し対等の立場で対話し学んでいく,という対話的な教育への方向性がある。
バフチン,M. M. 望月哲男・鈴木惇一(訳)(1995). ドストエフスキーの詩学. 筑摩書房.
Csibra, G., & Gergely, G.(2005). Social learning and social cognition: The case for pedagogy. In M. H. Johnson, & Y. Munakata (Eds.), Processes of change in brain and cognitive development. Attention and performance, XXI. Oxford: Oxford University Press.
Linel, P. (2009). Rethinking language, mind, and world dialogically: Interactional and contextual theories of human sense- making. Charlotte, NC: Information age publishing INC.
Markova. I. (2003). Dialogicality and social representations: The dynamics of mind. Cambridge: Cambridge University Press.
斎藤喜博 (1975/1995). 授業と教材解釈.一莖書房.
Tomasello, M., Carpenter, M., Call, J., Behne, T., & Moll, H.(2005). Understanding and sharing intentions: The origin of cultural cognition. Behavioral and brain sciences, 28, 675-735.
Tomasello, M. (2014). A natural history of human thinking. Cambridge, MA: Harvard University Press.
Trevarthen, C., & Hubley, P. (1978). Secondary intersubjectivity: Confidence, confiding and acts of meaning in the first year. In M. von Cranach, K. Foppa, W. Lepenies, & D. Ploog (Eds.), Human ethology: Claims and limits of a new discipline. Cambridge: Cambridge University Press.