[PG26] 仮説実験授業のたのしさを決めるもの(3)誤謬論
間違えることが許されると変わる学習と学習者
Keywords:仮説実験授業, 誤謬論, 主体的学習
問 題
仮説実験授業(以下「仮説」)はなぜたのしいのか。今回考察する理由は以下である。(1)「『仮説』では新しい事が学べる」(生徒達の言葉)から。(2)「仮説」では間違えることが許される(むしろ必要とされる)から。この二者は相互に関連していると筆者は考えるが,いかにか,説明する。また(2)と関わって「仮説」の提唱者板倉聖宣の「誤謬論」を取り上げる。間違いを肯定しそれへの恐れから生徒達を解放しているからである。ただ,生徒達が間違いへの恐れから解放されているという現象の実証だけでは理解は完成しない。生徒達が教示されずとも板倉の誤謬論に辿り着く「メカニズム」についても考える。間違いは主体的思考の顕れである。間違いへの恐れから解放された思考はたのしく発見に満ちている。間違えることを罰して学び手達を萎縮させている現行教育への問題提起としたい。
考察(1)「間違えるからこそたのしい発見がある」
新しいことなら「教科書」でも学ぶ。にも関わらず教科書による学びが「新しい」と認識されないのは,教科書によっては自らの構えが覆されることが少ないからではないだろうか。教科書を「習う」時には自らの構えを事前に明確化・対象化しておくことは想定されていない。が,対象化されない構えを覆すことは難しい(守屋慶子,1982)。つまり教科書は正しいとされる知識による「上書き」は強力に行なうが,構えの否定に基づく認識の「組み替え」には必ずしも適さないのである。学び手の構えと教科書の内容との間に仮に齟齬が存在したとしてもそれは放置され,間違った素朴理論との対比でこそ生じる「目から鱗の感動的な新発見」は経験の埒外となる。また教科書にある知識は「間違えてはならない正しい知識」であるため,教科書授業は「科学の進歩には欠かせない間違い」(ハーシュバック,2008)をさえ恐れる大学院生達を生み出すことになってしまう。これに対して「仮説」ではまず学び手の構えが覆される。学び手の素朴理論が実験結果の予想という形で言語化され実験で検証されるのだが,これは多くの生徒達に自らの素朴理論が覆される強烈な驚きの体験をもたらす。「えっどうして?」という強い関心が引き起こされ思考活動は活性化する。自己の前理解や間違いと対比される時,新しい知識-「自分では思いもしなかったこと」―の学習は「感動的な新発見」と評価され,その学びを可能にした授業は「さぶけがした(鳥肌が立った)」(手嶋唯人,2015)と形容される程の知的興奮を引き起こす。「仮説」では「間違えなければ進まない認識がある」ことを生徒達は学ぶ。自由に間違えてよいこと・間違えられることが「新発見」の前提条件となり,「更なる発見を求める学習意欲」の前提条件となるのである。間違いにも価値がある。間違いがたのしい。
考察(2)間違いを恐れない学び手を育てる誤謬論
「仮説」の生徒達は間違いを恐れない(守屋,準備中)。「仮説」の提唱者板倉聖宣の「誤謬論」(板倉,1969他)を,授業(「問題→予想→討論→実験・読み物」の積み重ね)を通して会得しているためと考えられる。これは通常間違いの当人が否定的感情や混乱を経験するのとは対照的である。後者は間違いの克服を困難にするが,これへのアンチテーゼとなるのが板倉の誤謬論である。板倉の誤謬論は「間違えること」を賞罰の「罰」の対象とはせず,認識活動の中心に位置づけている。科学史に学んでのことである。彼は言う。「間違いにはもっともな理由がある」「間違いは事後的にわかるものでしかなく,初めから間違いを考える人間などどこにもいない」「時には『考えすぎ』(頭のよいこと)が間違いにつながる」「間違いは真理探究の認識過程にとって不可避であり本質的でさえある」「間違いへの恐れは創造性の芽をつんでしまう」と。こうして間違いが許されると生徒達の中には「言われずとも自ら仮説実験する小さな科学者達」(Gopnik,A.,1999)が息を吹き返す。ハーシュバックも歓迎するだろう彼らにとって,間違いは思考の枷ではない。
考察(3)誤謬論の会得を助ける探求のデザイン
板倉の誤謬論は「間違いを恐れない生徒達」の復活に概念的な道を開くが,復活を可能にする具体的メカニズムにも帰結している。筆者が考えるこのメカニズムの骨格を以下素描する(仮説の根拠となった事実は下線で示す)。間違いをも含む主体的思考を「引き出す過程」(a)と「押し出す過程」(b),「支える過程」(c)が存在する。まず(a)だが,「仮説」での実験は「自分の予想を試す」ための実験である。予想を立てるからこそ実験はたのしい(板倉,2008)。この検証実験のたのしさに生徒達は夢中になるが,予想は当たるようになるまで当たらない(これは成績の上下には依存しない(出口,2001))。そこで生徒達は,考えれば間違えもすること,考えるからこそ間違えること,間違いには理由があること,間違いは認識の「次なる一歩」へのヒントでしかなく,「Aでないこと」の示唆は「Bであること」の示唆と同格の「等価の情報」として意味を持つこと,つまり間違いとて忌むべきものではないこと,を学び直す。これが「検証実験のたのしさ」が間違いを厭わない主体的思考を前へと「引き出す」過程である。次に(b)である。予想することがたのしくなったとしても問題が関心をひくものでなければ生徒達は予想を立てない。が,「仮説」の授業書にあるのは思わず考えたくなるような問題群である。素朴理論を使えば自信を持って答えられる問題も含まれる。そこでは間違いへの恐れが問題のおもしろさや素朴理論についての確信によって相殺されている。生徒達は予想を立てる。そしてもちろん素朴理論は覆されるのだが,重要なことはそれが「新発見」の喜びをも伴っている(出口,1994)ことである。問題や,その問題を自ら考えることがたのしく,その問題を考えた結果として新発見もあるのなら,(当たる予想はもちろん立てたいのだが)間違えることは忌諱されなくなる。これが,「おもしろい問題」が間違いを厭わない主体的思考を後ろから「押し出す」過程である。次に(c)である。「討論」で何が起きるかも見ておこう。「仮説」が生徒達の「複数性」を前提とする授業であるからこそ,その誤謬論は完成するという側面を持つからである。生徒達は討論を大いにたのしむ。自分では思いも寄らない他人のアイデアに驚き(「考えつかなかった!」(上廻,2008)),時には他人のもっともらしい意見に惑わされて「間違えるのなら主体的に。他人に支配されるな」と反省しつつ(板倉,2010),自分のものとは異なる〈観点〉や〈筋の通し方〉の存在について学んでゆく。そうしながら無いではない複数の〈観点〉や〈筋〉のおもしろさを実感するようになると,生徒達は〈それぞれに根拠のある考えを持った互いの存在〉を,間違えた時を含め,積極的に尊重し合うようになる。〈ただ一つの正解以外は判る前から否定しようとする考え方〉はクラスから消え去り,〈間違えると恥ずかしいといった懸念〉も消滅する(「雰囲気がそう」(斉藤,2004))。思考を巡らせるたのしさに気づいた生徒達の中には間違えてもよいからと意図的に大胆なアイデアを試す者さえ現れ,クラスは真理探究のためにアイデアを出し合うコミュニティーへと変化する。生徒達は自分達の「複数性」の中で誤謬論を完成させ,今度は互いを支え合う。上記(a)(b)(c)のプロセスを通じて生徒達は〈主体的に考え,主体的に間違え,主体的に賢くなる学び手〉へと変化してゆく。この「自分で自分をつくる」(まま)自主自律の感覚がまた,生徒達にはたのしい(上廻,2008)。
〈間違いを「悪い事」(まま)とはせず「温かい目」(まま)で見てくれた「仮説」の教師〉の授業はたのしかったと述懐する生徒がいる(小原茂巳,1982)。間違えることを許すと学習と学習者は変わる。「間違い観」の転換が必要ではないだろうか。
仮説実験授業(以下「仮説」)はなぜたのしいのか。今回考察する理由は以下である。(1)「『仮説』では新しい事が学べる」(生徒達の言葉)から。(2)「仮説」では間違えることが許される(むしろ必要とされる)から。この二者は相互に関連していると筆者は考えるが,いかにか,説明する。また(2)と関わって「仮説」の提唱者板倉聖宣の「誤謬論」を取り上げる。間違いを肯定しそれへの恐れから生徒達を解放しているからである。ただ,生徒達が間違いへの恐れから解放されているという現象の実証だけでは理解は完成しない。生徒達が教示されずとも板倉の誤謬論に辿り着く「メカニズム」についても考える。間違いは主体的思考の顕れである。間違いへの恐れから解放された思考はたのしく発見に満ちている。間違えることを罰して学び手達を萎縮させている現行教育への問題提起としたい。
考察(1)「間違えるからこそたのしい発見がある」
新しいことなら「教科書」でも学ぶ。にも関わらず教科書による学びが「新しい」と認識されないのは,教科書によっては自らの構えが覆されることが少ないからではないだろうか。教科書を「習う」時には自らの構えを事前に明確化・対象化しておくことは想定されていない。が,対象化されない構えを覆すことは難しい(守屋慶子,1982)。つまり教科書は正しいとされる知識による「上書き」は強力に行なうが,構えの否定に基づく認識の「組み替え」には必ずしも適さないのである。学び手の構えと教科書の内容との間に仮に齟齬が存在したとしてもそれは放置され,間違った素朴理論との対比でこそ生じる「目から鱗の感動的な新発見」は経験の埒外となる。また教科書にある知識は「間違えてはならない正しい知識」であるため,教科書授業は「科学の進歩には欠かせない間違い」(ハーシュバック,2008)をさえ恐れる大学院生達を生み出すことになってしまう。これに対して「仮説」ではまず学び手の構えが覆される。学び手の素朴理論が実験結果の予想という形で言語化され実験で検証されるのだが,これは多くの生徒達に自らの素朴理論が覆される強烈な驚きの体験をもたらす。「えっどうして?」という強い関心が引き起こされ思考活動は活性化する。自己の前理解や間違いと対比される時,新しい知識-「自分では思いもしなかったこと」―の学習は「感動的な新発見」と評価され,その学びを可能にした授業は「さぶけがした(鳥肌が立った)」(手嶋唯人,2015)と形容される程の知的興奮を引き起こす。「仮説」では「間違えなければ進まない認識がある」ことを生徒達は学ぶ。自由に間違えてよいこと・間違えられることが「新発見」の前提条件となり,「更なる発見を求める学習意欲」の前提条件となるのである。間違いにも価値がある。間違いがたのしい。
考察(2)間違いを恐れない学び手を育てる誤謬論
「仮説」の生徒達は間違いを恐れない(守屋,準備中)。「仮説」の提唱者板倉聖宣の「誤謬論」(板倉,1969他)を,授業(「問題→予想→討論→実験・読み物」の積み重ね)を通して会得しているためと考えられる。これは通常間違いの当人が否定的感情や混乱を経験するのとは対照的である。後者は間違いの克服を困難にするが,これへのアンチテーゼとなるのが板倉の誤謬論である。板倉の誤謬論は「間違えること」を賞罰の「罰」の対象とはせず,認識活動の中心に位置づけている。科学史に学んでのことである。彼は言う。「間違いにはもっともな理由がある」「間違いは事後的にわかるものでしかなく,初めから間違いを考える人間などどこにもいない」「時には『考えすぎ』(頭のよいこと)が間違いにつながる」「間違いは真理探究の認識過程にとって不可避であり本質的でさえある」「間違いへの恐れは創造性の芽をつんでしまう」と。こうして間違いが許されると生徒達の中には「言われずとも自ら仮説実験する小さな科学者達」(Gopnik,A.,1999)が息を吹き返す。ハーシュバックも歓迎するだろう彼らにとって,間違いは思考の枷ではない。
考察(3)誤謬論の会得を助ける探求のデザイン
板倉の誤謬論は「間違いを恐れない生徒達」の復活に概念的な道を開くが,復活を可能にする具体的メカニズムにも帰結している。筆者が考えるこのメカニズムの骨格を以下素描する(仮説の根拠となった事実は下線で示す)。間違いをも含む主体的思考を「引き出す過程」(a)と「押し出す過程」(b),「支える過程」(c)が存在する。まず(a)だが,「仮説」での実験は「自分の予想を試す」ための実験である。予想を立てるからこそ実験はたのしい(板倉,2008)。この検証実験のたのしさに生徒達は夢中になるが,予想は当たるようになるまで当たらない(これは成績の上下には依存しない(出口,2001))。そこで生徒達は,考えれば間違えもすること,考えるからこそ間違えること,間違いには理由があること,間違いは認識の「次なる一歩」へのヒントでしかなく,「Aでないこと」の示唆は「Bであること」の示唆と同格の「等価の情報」として意味を持つこと,つまり間違いとて忌むべきものではないこと,を学び直す。これが「検証実験のたのしさ」が間違いを厭わない主体的思考を前へと「引き出す」過程である。次に(b)である。予想することがたのしくなったとしても問題が関心をひくものでなければ生徒達は予想を立てない。が,「仮説」の授業書にあるのは思わず考えたくなるような問題群である。素朴理論を使えば自信を持って答えられる問題も含まれる。そこでは間違いへの恐れが問題のおもしろさや素朴理論についての確信によって相殺されている。生徒達は予想を立てる。そしてもちろん素朴理論は覆されるのだが,重要なことはそれが「新発見」の喜びをも伴っている(出口,1994)ことである。問題や,その問題を自ら考えることがたのしく,その問題を考えた結果として新発見もあるのなら,(当たる予想はもちろん立てたいのだが)間違えることは忌諱されなくなる。これが,「おもしろい問題」が間違いを厭わない主体的思考を後ろから「押し出す」過程である。次に(c)である。「討論」で何が起きるかも見ておこう。「仮説」が生徒達の「複数性」を前提とする授業であるからこそ,その誤謬論は完成するという側面を持つからである。生徒達は討論を大いにたのしむ。自分では思いも寄らない他人のアイデアに驚き(「考えつかなかった!」(上廻,2008)),時には他人のもっともらしい意見に惑わされて「間違えるのなら主体的に。他人に支配されるな」と反省しつつ(板倉,2010),自分のものとは異なる〈観点〉や〈筋の通し方〉の存在について学んでゆく。そうしながら無いではない複数の〈観点〉や〈筋〉のおもしろさを実感するようになると,生徒達は〈それぞれに根拠のある考えを持った互いの存在〉を,間違えた時を含め,積極的に尊重し合うようになる。〈ただ一つの正解以外は判る前から否定しようとする考え方〉はクラスから消え去り,〈間違えると恥ずかしいといった懸念〉も消滅する(「雰囲気がそう」(斉藤,2004))。思考を巡らせるたのしさに気づいた生徒達の中には間違えてもよいからと意図的に大胆なアイデアを試す者さえ現れ,クラスは真理探究のためにアイデアを出し合うコミュニティーへと変化する。生徒達は自分達の「複数性」の中で誤謬論を完成させ,今度は互いを支え合う。上記(a)(b)(c)のプロセスを通じて生徒達は〈主体的に考え,主体的に間違え,主体的に賢くなる学び手〉へと変化してゆく。この「自分で自分をつくる」(まま)自主自律の感覚がまた,生徒達にはたのしい(上廻,2008)。
〈間違いを「悪い事」(まま)とはせず「温かい目」(まま)で見てくれた「仮説」の教師〉の授業はたのしかったと述懐する生徒がいる(小原茂巳,1982)。間違えることを許すと学習と学習者は変わる。「間違い観」の転換が必要ではないだろうか。