1:00 PM - 3:00 PM
[shoutai] 「自由の相互承認」のための学校・地域コミュニティづくり
教育心理学と教育哲学の協働のために
Keywords:自由の相互承認
本講演では,主として次の2点をテーマにしたい。
(1)学問としての教育学の体系を今一度見直し,教育哲学と教育心理学の創造的な協働の道筋を示すこと。
教育学は,伝統的に,シュライエルマッハー,ヘルバルト,ディルタイらによって,倫理学(哲学)に基礎を置く「目的論」と,心理学に基礎を置く「技術論」の2部門からなるとされてきた。後のブレツィンカは,さらにこれを展開し,「教育哲学」「教育科学」「実践的教育学」の3部門として体系化することを提唱した。より現代的な言葉でいえば,「目的部門」「実証部門」「実践部門」となるだろう。
しかし今日,この2部門あるいは3部門の協働は,今や残念ながらほとんど見られなくなってしまった。
その最大の責めは,私の考えでは教育哲学の方にある。教育社会学者の広田照幸の言葉を借りれば,この数十年,教育哲学はずっと「臆病」であり続けてきた。つまり,教育とは何か,そしてそれはどうあれば「よい」「正当」といいうるかという問いを,力強く探究することを諦めてしまってきたのだ。
そのことが,今日の教育学における,広田がいうところの「規範欠如」の問題もまた生み出している。つまり,教育学はどこを目指し,何のために研究を行っていくべきなのか,その足場が多かれ少なかれ見失われているというのである。
この問題は,さらに,教育学諸領域のいっそうの細分化を誘発することにもなっている。そしてそのために,現代教育学は,膨大かつ多様な教育学諸領域の研究蓄積を,相補的・整合的・創造的・協働的に活かし合う道筋を見失ってしまっているのである。
さて,しかしこのことは,逆にいえば,(公)教育の「本質」およびその「正当性」の原理――これを本講演では教育の「構想指針原理」と呼ぶ――を解明することができれば,その指針に基づいて,膨大かつ多様化・細分化した教育学の知見を,相補的・協働的に体系化し活用していくことができるようになるということでもある。そのための見通しを,本講演ではできるだけ簡明に論じることにしたいと思う。
(2)「自由」およびその「相互承認」の実質化のための実践理論群を提案すること。
(1)において,わたしは,公教育の本質を,「各人の〈自由〉および社会における〈自由の相互承認〉の〈教養=力能〉を通した実質化」として,また,その「正当性」の原理を「一般福祉」の原理として提示する。もちろん,これは今後哲学的に検証され続けなければならない原理である。しかし,さしあたりこの原理が認められたとするなら,教育学諸領域が(公教育をテーマにする際)協働して探究すべき,次の4つのテーマが明確化されることになる。
①現代において〈自由〉に生きるための〈教養=力能〉とは何か?
②それはどうすれば育むことができるか?
③〈自由の相互承認〉の“感度”はどうすれば育めるか?
④「一般福祉」に資する教育行政のあり方はどのようなものか?
本講演では,このうち主として③のテーマを,「学びのあり方」と「学校・地域のあり方」の2つの観点から考えることにしたい。そして,前者については,ジョン・デューイ以来の教育(哲)学および実践の蓄積を踏まえた,(a)「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」の理論を提唱する。後者については,(b)「信頼・承認の空間づくり」と(c)「人間関係の流動性の仕掛けづくり」というキーワードを挙げる。
これら3つの方向性に妥当性があるとするならば,そのより効果的な方法論の深化や効果検証などは,教育心理学が得意とするところであろう。教育哲学と教育心理学がどのように協働することができるか,またすべきなのか,本講演ではその展望を提案したい。
講師略歴
1980年生まれ。早稲田大学教育学部卒業。早稲田大学教育学研究科博士課程単位取得退学。博士(教育学)。早稲田大学教育・総合科学学術院助手,日本学術振興会特別研究員(PD)などを経て,現在,熊本大学教育学部准教授。
主な著書
(単著)
『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ,2011年)
『勉強するのは何のため?――僕らの「答え」のつくり方』(日本評論社,2013年)
『教育の力』(講談社現代新書,2014年)
『「自由」はいかに可能か――社会構想のための哲学』(NHKブックス,2014年)
『子どもの頃から哲学者』(大和書房,2016年)
『はじめての哲学的思考(仮)』(ちくまプリマー新書,2016年刊行予定)
(共著)
リヒテルズ直子・苫野一徳『未来の学校のつくり方(仮)』(日本評論社,2016年刊行予定)
(1)学問としての教育学の体系を今一度見直し,教育哲学と教育心理学の創造的な協働の道筋を示すこと。
教育学は,伝統的に,シュライエルマッハー,ヘルバルト,ディルタイらによって,倫理学(哲学)に基礎を置く「目的論」と,心理学に基礎を置く「技術論」の2部門からなるとされてきた。後のブレツィンカは,さらにこれを展開し,「教育哲学」「教育科学」「実践的教育学」の3部門として体系化することを提唱した。より現代的な言葉でいえば,「目的部門」「実証部門」「実践部門」となるだろう。
しかし今日,この2部門あるいは3部門の協働は,今や残念ながらほとんど見られなくなってしまった。
その最大の責めは,私の考えでは教育哲学の方にある。教育社会学者の広田照幸の言葉を借りれば,この数十年,教育哲学はずっと「臆病」であり続けてきた。つまり,教育とは何か,そしてそれはどうあれば「よい」「正当」といいうるかという問いを,力強く探究することを諦めてしまってきたのだ。
そのことが,今日の教育学における,広田がいうところの「規範欠如」の問題もまた生み出している。つまり,教育学はどこを目指し,何のために研究を行っていくべきなのか,その足場が多かれ少なかれ見失われているというのである。
この問題は,さらに,教育学諸領域のいっそうの細分化を誘発することにもなっている。そしてそのために,現代教育学は,膨大かつ多様な教育学諸領域の研究蓄積を,相補的・整合的・創造的・協働的に活かし合う道筋を見失ってしまっているのである。
さて,しかしこのことは,逆にいえば,(公)教育の「本質」およびその「正当性」の原理――これを本講演では教育の「構想指針原理」と呼ぶ――を解明することができれば,その指針に基づいて,膨大かつ多様化・細分化した教育学の知見を,相補的・協働的に体系化し活用していくことができるようになるということでもある。そのための見通しを,本講演ではできるだけ簡明に論じることにしたいと思う。
(2)「自由」およびその「相互承認」の実質化のための実践理論群を提案すること。
(1)において,わたしは,公教育の本質を,「各人の〈自由〉および社会における〈自由の相互承認〉の〈教養=力能〉を通した実質化」として,また,その「正当性」の原理を「一般福祉」の原理として提示する。もちろん,これは今後哲学的に検証され続けなければならない原理である。しかし,さしあたりこの原理が認められたとするなら,教育学諸領域が(公教育をテーマにする際)協働して探究すべき,次の4つのテーマが明確化されることになる。
①現代において〈自由〉に生きるための〈教養=力能〉とは何か?
②それはどうすれば育むことができるか?
③〈自由の相互承認〉の“感度”はどうすれば育めるか?
④「一般福祉」に資する教育行政のあり方はどのようなものか?
本講演では,このうち主として③のテーマを,「学びのあり方」と「学校・地域のあり方」の2つの観点から考えることにしたい。そして,前者については,ジョン・デューイ以来の教育(哲)学および実践の蓄積を踏まえた,(a)「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」の理論を提唱する。後者については,(b)「信頼・承認の空間づくり」と(c)「人間関係の流動性の仕掛けづくり」というキーワードを挙げる。
これら3つの方向性に妥当性があるとするならば,そのより効果的な方法論の深化や効果検証などは,教育心理学が得意とするところであろう。教育哲学と教育心理学がどのように協働することができるか,またすべきなのか,本講演ではその展望を提案したい。
講師略歴
1980年生まれ。早稲田大学教育学部卒業。早稲田大学教育学研究科博士課程単位取得退学。博士(教育学)。早稲田大学教育・総合科学学術院助手,日本学術振興会特別研究員(PD)などを経て,現在,熊本大学教育学部准教授。
主な著書
(単著)
『どのような教育が「よい」教育か』(講談社選書メチエ,2011年)
『勉強するのは何のため?――僕らの「答え」のつくり方』(日本評論社,2013年)
『教育の力』(講談社現代新書,2014年)
『「自由」はいかに可能か――社会構想のための哲学』(NHKブックス,2014年)
『子どもの頃から哲学者』(大和書房,2016年)
『はじめての哲学的思考(仮)』(ちくまプリマー新書,2016年刊行予定)
(共著)
リヒテルズ直子・苫野一徳『未来の学校のつくり方(仮)』(日本評論社,2016年刊行予定)