1:00 PM - 3:00 PM
[JH03] なぜ子どもが立ち直ろうとするときに「問題」は顕在化するのだろうか
「導かれた参加(guided participation)」の視点から「問題」を「発達の契機」へ
Keywords:導かれた参加(guided participation), 問題行動, 支援・援助
企画趣旨
学校で様々な課題,生きづらさを抱えている子どもたちをサポートする際には,もちろん反社会的行動や不適応といった「問題」が生じないに越したことはない。しかし現実には,支援を行う際にはどこかで「問題」が生じることがほとんどである。したがって支援のプロセスとは,「問題」をいかに乗り越え,その生活の中で意味づけていくかというプロセスであるとも言い換えられるだろう。
Rogoff(1990)は,文化コミュニティの実践や価値観に参加し導かれながら学ぶことを「文化の活動への導かれた参加」と名付けている。そして,導かれた参加は,社会的に望ましい実践に限定されるものではないとしている。子どもたちが支援を受け,新たなコミュニティに参加していく過程において起こす「問題」が,新たなコミュニティに参加していく際に導かれたものであると考えるならば,我々はその「問題」を単純に悪しきものとするのではなく,その「問題」の意味づけを変化させ,新たな発達の契機にしていく必要があるだろう。本自主シンポジウムの目的は,こうしたサポートを受けて新たなコミュニティに参加するプロセスにおいて,「問題」が表面化したとき,それをどのように位置づけて,新たな発達の契機へと意味づけていくかを検討することである。
当日は,話題提供では中学校,高校,単位制高校をフィールドとした報告を取り上げ,「問題」をどう意味づけ「発達の契機」としていったかについて報告する予定である。また指定討論では,状況論の立場から,問題を未然に防ぐ支援の立場からそれぞれコメントを頂き,フロアとともにディスカッションを深めていきたい。
「関係性からの撤退」としての不登校,「排他しない関係形成」の支援
神崎 真実
不登校の問題が注目されるようになって,およそ半世紀が経過した。この間,スクールカウンセラーの導入や適応指導教室の設置,出席扱いの措置など,様々な形で不登校者の居場所が用意されてきた。しかし,そうした支援は義務教育期までであり,高校における不登校者支援は個々の学校に一任されてきた。現状として,不登校経験者や中途退学者は,定時制高校や通信制高校,一部の全日制高校に集中している。
では,不登校経験者や中途退学者を受け入れる高校(以下,受け入れ校)の教師たちは,いかなる視点をもって,どのような支援体制を構成しているのか。報告者は,教師たちの視点と方法を記述するため,フィールドワークを行ってきた。フィールドの1つである私立・全日制単位制B高校では,職員室に隣接するホールで,ボランティアとしての参与観察を行った。フィールドワーク初日から,ホールで過ごす生徒たちに対し,教師が「可愛いかわいいAちゃん,(授業に)行きますよ」と声かけする姿などが観察された。当初は,こうした場面が「甘やかし」に見えることもあった。しかし,観察や聞き取りを重ねるなかで,こうした声かけは,生徒の対人関係「指導」の一環であることが分かってきた。
教師たちの視点について結論を先取りすると,B高校では「排他しない関係の形成」が実践の核として位置づけられていた。生徒たちは,登校できない理由として同級生の存在を報告し,苦手な同級生のいる空間から撤退するために,不登校や授業欠席を繰り返した。同級生との関係をめぐる葛藤は,集団生活によって生じるものである。通信制や単位制高校のなかには,集団生活そのものを解体することで,「教科の学習」に集中できる環境をつくりだす学校も少なくない。一方B高校では,学級を基本単位として,「全日制」として活動することを価値づけていた。
言い換えると,B高校では,「排他しない関係形成」へ向かって生徒の学校参加が導かれていた。不登校は「関係性からの撤退」の問題として可視化され,支援する契機とみなされていたのである。本報告では,①教師が問題を顕在化させるよう導いていたのか,意図せざる結果として問題が浮上したのか,②生徒が排他しない関係の形成へ向かったのか否か,の2つの観点から,いくつかの事例を整理する。そして,「応え・答えのないプロセス」と「あえて問題を流していく指導プロセス」について検討する。
子どもの失敗についていく教育の相互的達成
松嶋 秀明
近年,学校教育現場でも,いわゆる非行的な問題行動をめぐって「毅然とした対応(ゼロ・トレランス方式)」が注目されるなど,少年の行動を厳しく抑えこもうとする流れがある。これには「受容」「共感」を基調とした関わりを重視する,いわゆる「対話派(山本, 2011)」からの批判がある。このような議論は,関わりの方向性は真逆であるものの,「教師」がどのような関わりをすべきかに焦点をあてる点では共通している。ここでは生徒は,教師の指導の「客体」にほかならない。藤岡 (2007)は,非行臨床において「安全・安心の枠組み」をつくることが関わりの前提であるとし,力比べによって少年を強制的に枠組みにあてはめるのではなく,むしろ,そのなかにとどまることが本人にも有意味であるような枠組みをつくることが重要としている。ここでは教師がどのような指導をするかばかりか,それが生徒からどう受け入れられるかが重視される。
こうした議論をふまえて本報告では,筆者による「荒れ」た中学校(C中学校)のフィールドワークから,とりわけ「問題」とされた生徒Dの事例を中心に,教師と生徒とのやりとりのなかで,いかに「枠組み」が形成されたかみていこう。そのことで,教師と生徒との指導関係とはどのようなものであるかについて考察したい。
さて,ある年のC中学校では1年生が入学当初から授業エスケープや授業妨害,対教師暴力が頻繁に生じていた。教師たちは,当初,半ば強引に教室に入れようとしたが徒労におわった。むしろDは教師たちの強い働きに反発し,些細なことから担任教師を殴った。これをうけて被害届がだされたことで,Dは警察の継続補導をうけることになった。このことは一見すると両者の関係を悪化させるものだが,学期末にDは担任に「(警察への送迎の)車のるのは○回目だ」といったように,それが担任との貴重な共通の思い出であるかのように語った。教師たちはDから信頼感をよせられることに手応えをもつようになった。
他方で教師たちは,逸脱生徒らを無理に教室にいれることを諦めた結果として,生徒との関係が深まり,例えば,「Dは上から言われることには反発する」といったように特質への理解を深めた。
このようにして1学年の終わりには「問題」生徒と教師との良好な関係が築かれはじめたが,これは教師があらかじめデザインされた指導方針が実行されたものではなく,むしろ,教師の挫折から教師自身の見方の修正が導かれたものもあった。被害届のように単体ではネガティブに作用するものでも,その後の関わりと結合されることでプラスの効果をもたらすものもあった。その意味で,これらは「失敗(=逸脱)についていく実践」といえる。
支援する際に顕在化する「問題」は,その支援の中でどう位置づけられるか
川俣 智路
適応に課題を抱えている生徒に対して,学びの場面や学級などのコミュニティに参加するために支援を実施し中途退学などのドロップアウトを防ぐことは,いわゆる教育困難と呼ばれる高等学校には必須のことである。しかし,実際には支援がすぐに生徒が学びやコミュニティへ参加していくための助けになるとは限らない。むしろ,新たに活動に参加していくことにより一見すると新たな「問題」が発生したように見えることも少なくない。生徒の支援ニーズは,そのときに参加しようとする活動,コミュニティによって,どう規定されるかは異なってくるものであり,固定的なものではないと考えることができる。つまり,支援を受けることにより,そこに生じた新たな「問題」は,支援が失敗したのではなく,新たに発達していくためにその発達課題の意味づけが変化したと考えられるのではないだろうか。
本報告では,高校において支援が必要な児童が,実際に支援を受けることにより,問題が変化していき,その発達課題がどう変化して位置づけられてきたかについて検討していきたい。
高校1年生のEさんは,入学当初は静かに着席しており,特に目立つ行動は見られなかったが,周囲の生徒とコミュニケーションを取ることが全くなく,時に周囲の生徒とトラブルになることがあった。そこで,教員はEさんが周囲と円滑にコミュニケーションをとれるようにするために,行事活動などの準備を通じて,周囲とのコミュニケーションがとれるように働きかけた。しかし,Eさんは特に周囲とのコミュニケーションが改善せず,かえって周囲との接触が増えたことによりトラブルや,周囲の生徒から不満が数多くあげられるようになった。これは,Eさんにとってはコミュニケーションを取るということが予期せぬことが多く生じることを意味しており,それに対して十分に対応することができなかったのである。
教員は,こうしたトラブルを支援の失敗とは位置づけず,高校生活をする上で必要な問題ができたものであると位置づけ,支援を進めた。その結果,Eさんのコミュニケーションや周囲への姿勢はあまり変化がなかったものの,周囲の生徒のEさんに対する姿勢が変化し,Eさんと周囲の生徒の関係性は徐々に改善していき,それに伴いEさんの周囲への態度も変化していった。
学校で様々な課題,生きづらさを抱えている子どもたちをサポートする際には,もちろん反社会的行動や不適応といった「問題」が生じないに越したことはない。しかし現実には,支援を行う際にはどこかで「問題」が生じることがほとんどである。したがって支援のプロセスとは,「問題」をいかに乗り越え,その生活の中で意味づけていくかというプロセスであるとも言い換えられるだろう。
Rogoff(1990)は,文化コミュニティの実践や価値観に参加し導かれながら学ぶことを「文化の活動への導かれた参加」と名付けている。そして,導かれた参加は,社会的に望ましい実践に限定されるものではないとしている。子どもたちが支援を受け,新たなコミュニティに参加していく過程において起こす「問題」が,新たなコミュニティに参加していく際に導かれたものであると考えるならば,我々はその「問題」を単純に悪しきものとするのではなく,その「問題」の意味づけを変化させ,新たな発達の契機にしていく必要があるだろう。本自主シンポジウムの目的は,こうしたサポートを受けて新たなコミュニティに参加するプロセスにおいて,「問題」が表面化したとき,それをどのように位置づけて,新たな発達の契機へと意味づけていくかを検討することである。
当日は,話題提供では中学校,高校,単位制高校をフィールドとした報告を取り上げ,「問題」をどう意味づけ「発達の契機」としていったかについて報告する予定である。また指定討論では,状況論の立場から,問題を未然に防ぐ支援の立場からそれぞれコメントを頂き,フロアとともにディスカッションを深めていきたい。
「関係性からの撤退」としての不登校,「排他しない関係形成」の支援
神崎 真実
不登校の問題が注目されるようになって,およそ半世紀が経過した。この間,スクールカウンセラーの導入や適応指導教室の設置,出席扱いの措置など,様々な形で不登校者の居場所が用意されてきた。しかし,そうした支援は義務教育期までであり,高校における不登校者支援は個々の学校に一任されてきた。現状として,不登校経験者や中途退学者は,定時制高校や通信制高校,一部の全日制高校に集中している。
では,不登校経験者や中途退学者を受け入れる高校(以下,受け入れ校)の教師たちは,いかなる視点をもって,どのような支援体制を構成しているのか。報告者は,教師たちの視点と方法を記述するため,フィールドワークを行ってきた。フィールドの1つである私立・全日制単位制B高校では,職員室に隣接するホールで,ボランティアとしての参与観察を行った。フィールドワーク初日から,ホールで過ごす生徒たちに対し,教師が「可愛いかわいいAちゃん,(授業に)行きますよ」と声かけする姿などが観察された。当初は,こうした場面が「甘やかし」に見えることもあった。しかし,観察や聞き取りを重ねるなかで,こうした声かけは,生徒の対人関係「指導」の一環であることが分かってきた。
教師たちの視点について結論を先取りすると,B高校では「排他しない関係の形成」が実践の核として位置づけられていた。生徒たちは,登校できない理由として同級生の存在を報告し,苦手な同級生のいる空間から撤退するために,不登校や授業欠席を繰り返した。同級生との関係をめぐる葛藤は,集団生活によって生じるものである。通信制や単位制高校のなかには,集団生活そのものを解体することで,「教科の学習」に集中できる環境をつくりだす学校も少なくない。一方B高校では,学級を基本単位として,「全日制」として活動することを価値づけていた。
言い換えると,B高校では,「排他しない関係形成」へ向かって生徒の学校参加が導かれていた。不登校は「関係性からの撤退」の問題として可視化され,支援する契機とみなされていたのである。本報告では,①教師が問題を顕在化させるよう導いていたのか,意図せざる結果として問題が浮上したのか,②生徒が排他しない関係の形成へ向かったのか否か,の2つの観点から,いくつかの事例を整理する。そして,「応え・答えのないプロセス」と「あえて問題を流していく指導プロセス」について検討する。
子どもの失敗についていく教育の相互的達成
松嶋 秀明
近年,学校教育現場でも,いわゆる非行的な問題行動をめぐって「毅然とした対応(ゼロ・トレランス方式)」が注目されるなど,少年の行動を厳しく抑えこもうとする流れがある。これには「受容」「共感」を基調とした関わりを重視する,いわゆる「対話派(山本, 2011)」からの批判がある。このような議論は,関わりの方向性は真逆であるものの,「教師」がどのような関わりをすべきかに焦点をあてる点では共通している。ここでは生徒は,教師の指導の「客体」にほかならない。藤岡 (2007)は,非行臨床において「安全・安心の枠組み」をつくることが関わりの前提であるとし,力比べによって少年を強制的に枠組みにあてはめるのではなく,むしろ,そのなかにとどまることが本人にも有意味であるような枠組みをつくることが重要としている。ここでは教師がどのような指導をするかばかりか,それが生徒からどう受け入れられるかが重視される。
こうした議論をふまえて本報告では,筆者による「荒れ」た中学校(C中学校)のフィールドワークから,とりわけ「問題」とされた生徒Dの事例を中心に,教師と生徒とのやりとりのなかで,いかに「枠組み」が形成されたかみていこう。そのことで,教師と生徒との指導関係とはどのようなものであるかについて考察したい。
さて,ある年のC中学校では1年生が入学当初から授業エスケープや授業妨害,対教師暴力が頻繁に生じていた。教師たちは,当初,半ば強引に教室に入れようとしたが徒労におわった。むしろDは教師たちの強い働きに反発し,些細なことから担任教師を殴った。これをうけて被害届がだされたことで,Dは警察の継続補導をうけることになった。このことは一見すると両者の関係を悪化させるものだが,学期末にDは担任に「(警察への送迎の)車のるのは○回目だ」といったように,それが担任との貴重な共通の思い出であるかのように語った。教師たちはDから信頼感をよせられることに手応えをもつようになった。
他方で教師たちは,逸脱生徒らを無理に教室にいれることを諦めた結果として,生徒との関係が深まり,例えば,「Dは上から言われることには反発する」といったように特質への理解を深めた。
このようにして1学年の終わりには「問題」生徒と教師との良好な関係が築かれはじめたが,これは教師があらかじめデザインされた指導方針が実行されたものではなく,むしろ,教師の挫折から教師自身の見方の修正が導かれたものもあった。被害届のように単体ではネガティブに作用するものでも,その後の関わりと結合されることでプラスの効果をもたらすものもあった。その意味で,これらは「失敗(=逸脱)についていく実践」といえる。
支援する際に顕在化する「問題」は,その支援の中でどう位置づけられるか
川俣 智路
適応に課題を抱えている生徒に対して,学びの場面や学級などのコミュニティに参加するために支援を実施し中途退学などのドロップアウトを防ぐことは,いわゆる教育困難と呼ばれる高等学校には必須のことである。しかし,実際には支援がすぐに生徒が学びやコミュニティへ参加していくための助けになるとは限らない。むしろ,新たに活動に参加していくことにより一見すると新たな「問題」が発生したように見えることも少なくない。生徒の支援ニーズは,そのときに参加しようとする活動,コミュニティによって,どう規定されるかは異なってくるものであり,固定的なものではないと考えることができる。つまり,支援を受けることにより,そこに生じた新たな「問題」は,支援が失敗したのではなく,新たに発達していくためにその発達課題の意味づけが変化したと考えられるのではないだろうか。
本報告では,高校において支援が必要な児童が,実際に支援を受けることにより,問題が変化していき,その発達課題がどう変化して位置づけられてきたかについて検討していきたい。
高校1年生のEさんは,入学当初は静かに着席しており,特に目立つ行動は見られなかったが,周囲の生徒とコミュニケーションを取ることが全くなく,時に周囲の生徒とトラブルになることがあった。そこで,教員はEさんが周囲と円滑にコミュニケーションをとれるようにするために,行事活動などの準備を通じて,周囲とのコミュニケーションがとれるように働きかけた。しかし,Eさんは特に周囲とのコミュニケーションが改善せず,かえって周囲との接触が増えたことによりトラブルや,周囲の生徒から不満が数多くあげられるようになった。これは,Eさんにとってはコミュニケーションを取るということが予期せぬことが多く生じることを意味しており,それに対して十分に対応することができなかったのである。
教員は,こうしたトラブルを支援の失敗とは位置づけず,高校生活をする上で必要な問題ができたものであると位置づけ,支援を進めた。その結果,Eさんのコミュニケーションや周囲への姿勢はあまり変化がなかったものの,周囲の生徒のEさんに対する姿勢が変化し,Eさんと周囲の生徒の関係性は徐々に改善していき,それに伴いEさんの周囲への態度も変化していった。