[PC26] ドラマ教育実践分析における理論的枠組みの検討
バフチンを手がかりに
Keywords:バフチン, ドラマ教育, 社会文化的アプローチ
目 的
本研究は,近年増加傾向にあるドラマ教育実践分析の理論的枠組みを検討する。同時に,理論的枠組みを提示することで,ドラマ教育実践を再考する。
ドラマ教育とは
学芸会に端を発する国内の演劇教育は独特の発展を遂げてきた(冨田,1998)。その演劇教育には「演劇で教育する」及び「演劇を教育する」という2つの考え方が存在する(日本演劇教育連盟,1988)。本稿では,前者の「演劇で教育する」実践をドラマ教育と位置付ける。
問題1
ドラマ教育は1996年以降,学習指導要領の変遷に伴いながら新たな教育実践手法の1つとして活用され続けている(石川, 2018)。近年では,2017年の改訂における「主体的・対話的で深い学び(アクティブラーニング)」として,従来のヘルバルト主義から抜け出した教育実践としてのドラマ教育の活用が期待されている。
このようなドラマ教育の有用性について述べている実践研究が増加する一方で,その理論的な考察の貧弱さが指摘されている(cf.小林,2010;渡辺,2007など)。
問題2
上述したように,これまでのドラマ教育実践分析においてその「有用性」が唱えられている。しかしその「有用性」を理論的に検討したものの殆どにおいて,その実践者側からの技術方法論的視点から語られている。ここで問題となってくるのは,その「有用性」は誰にとっての「有用性」なのかということである。
石川(2018)はドラマ教育における技術方法論の探求が教授と学習を分別することによって,従来のヘルバルト主義の技術方法論の代替案としてのみ機能する危険性を示唆している。無論,技術の習得は重要なことであり,それを伸ばして行く必要性があることは確かである。しかし,その理論背景を抜きにその技術論のみを語ることは,本来の教育的価値を失うことになりかねないのではないであろうか。上述したような危険性を避ける為にはどのような視点で,どのようにドラマ教育実践を分析してくべきなのであろうか。以下ではこの点に焦点を置いて検討した。
考察1
本研究では,社会文化的アプローチの観点を元にバフチン理論を用いることがドラマ教育実践分析の考察に与える可能性に着目した。
社会文化的アプローチにおける技術方法論とは,結果の為の方法論ではなく,ホルツマン(Holtzman, 2008/茂呂訳, 2014)が言うところの「道具と結果の方法論(道具であると同時に結果tool- and- result methodology)」を指す。つまり実践は,実践者の求める結果を実行する為の方法として捉えられるのではなく,常に新しく作り替えられて行くものとして捉えられる。ここでの作り替えられて行くものとはその実践に参加する全ての人々が織りなす現象の総体を指す。つまり「教授者—学習者」の対ではなく,教授者も一人の参加者として作り替えられて行く対象とされる。
このように常に作り替えられて行くものとしての実践を捉える為に,バフチンの理論(Bakhtin, 1986)を用いる可能性が考えられる。朴・茂呂(2007)も「バフチンの対話性は,社会的相互行為の状況を他者の発話を再生産的に利用しながらもそこに新奇な意味付けがされる事態と捉える」と言及している。また石黒(2016)は,実践の法則性の考察に焦点を当てるのではなく,バフチンのジャンルでの学習実践の考察を提唱している。ここでのジャンルとは「相対的に安定した発話のタイプ」(Bakhtin, 1986)を指すと述べている。
考察2
上記の理論枠組みでのドラマ教育において「表現する」とは何を意味するのか。バフチン(Bakhtin, 1929/桑野訳,1989)によると「しぐさ」も文脈における「言葉」である。参加者が実践において黙っている事も表現の1つである。そこには何の意味が生成されているのか。この背景を理論的に考察することが出来る。つまり,バフチン理論を用いることで,これまで言及されてきたドラマ教育実践における「有用性」とは誰にとっての有用性なのか,またその思考の理論背景を検討することが可能になると考える。
今後の展望
このような理論的視座を設けることで,実践分析及び実践の更なる展開が考えられる。石黒(2016)は,実践者が常に作り替えられる実践における自らの理論を「意識化」(Freire,1970)することが自らの実践を批判的に見る機会を提供すると述べている。今後は,上記のような理論的観点からバフチンのジャンルを手がかりにドラマ教育実践の分析を行う。
本研究は,近年増加傾向にあるドラマ教育実践分析の理論的枠組みを検討する。同時に,理論的枠組みを提示することで,ドラマ教育実践を再考する。
ドラマ教育とは
学芸会に端を発する国内の演劇教育は独特の発展を遂げてきた(冨田,1998)。その演劇教育には「演劇で教育する」及び「演劇を教育する」という2つの考え方が存在する(日本演劇教育連盟,1988)。本稿では,前者の「演劇で教育する」実践をドラマ教育と位置付ける。
問題1
ドラマ教育は1996年以降,学習指導要領の変遷に伴いながら新たな教育実践手法の1つとして活用され続けている(石川, 2018)。近年では,2017年の改訂における「主体的・対話的で深い学び(アクティブラーニング)」として,従来のヘルバルト主義から抜け出した教育実践としてのドラマ教育の活用が期待されている。
このようなドラマ教育の有用性について述べている実践研究が増加する一方で,その理論的な考察の貧弱さが指摘されている(cf.小林,2010;渡辺,2007など)。
問題2
上述したように,これまでのドラマ教育実践分析においてその「有用性」が唱えられている。しかしその「有用性」を理論的に検討したものの殆どにおいて,その実践者側からの技術方法論的視点から語られている。ここで問題となってくるのは,その「有用性」は誰にとっての「有用性」なのかということである。
石川(2018)はドラマ教育における技術方法論の探求が教授と学習を分別することによって,従来のヘルバルト主義の技術方法論の代替案としてのみ機能する危険性を示唆している。無論,技術の習得は重要なことであり,それを伸ばして行く必要性があることは確かである。しかし,その理論背景を抜きにその技術論のみを語ることは,本来の教育的価値を失うことになりかねないのではないであろうか。上述したような危険性を避ける為にはどのような視点で,どのようにドラマ教育実践を分析してくべきなのであろうか。以下ではこの点に焦点を置いて検討した。
考察1
本研究では,社会文化的アプローチの観点を元にバフチン理論を用いることがドラマ教育実践分析の考察に与える可能性に着目した。
社会文化的アプローチにおける技術方法論とは,結果の為の方法論ではなく,ホルツマン(Holtzman, 2008/茂呂訳, 2014)が言うところの「道具と結果の方法論(道具であると同時に結果tool- and- result methodology)」を指す。つまり実践は,実践者の求める結果を実行する為の方法として捉えられるのではなく,常に新しく作り替えられて行くものとして捉えられる。ここでの作り替えられて行くものとはその実践に参加する全ての人々が織りなす現象の総体を指す。つまり「教授者—学習者」の対ではなく,教授者も一人の参加者として作り替えられて行く対象とされる。
このように常に作り替えられて行くものとしての実践を捉える為に,バフチンの理論(Bakhtin, 1986)を用いる可能性が考えられる。朴・茂呂(2007)も「バフチンの対話性は,社会的相互行為の状況を他者の発話を再生産的に利用しながらもそこに新奇な意味付けがされる事態と捉える」と言及している。また石黒(2016)は,実践の法則性の考察に焦点を当てるのではなく,バフチンのジャンルでの学習実践の考察を提唱している。ここでのジャンルとは「相対的に安定した発話のタイプ」(Bakhtin, 1986)を指すと述べている。
考察2
上記の理論枠組みでのドラマ教育において「表現する」とは何を意味するのか。バフチン(Bakhtin, 1929/桑野訳,1989)によると「しぐさ」も文脈における「言葉」である。参加者が実践において黙っている事も表現の1つである。そこには何の意味が生成されているのか。この背景を理論的に考察することが出来る。つまり,バフチン理論を用いることで,これまで言及されてきたドラマ教育実践における「有用性」とは誰にとっての有用性なのか,またその思考の理論背景を検討することが可能になると考える。
今後の展望
このような理論的視座を設けることで,実践分析及び実践の更なる展開が考えられる。石黒(2016)は,実践者が常に作り替えられる実践における自らの理論を「意識化」(Freire,1970)することが自らの実践を批判的に見る機会を提供すると述べている。今後は,上記のような理論的観点からバフチンのジャンルを手がかりにドラマ教育実践の分析を行う。