[ハ防企] 学校現場でのハラスメント
部活動に焦点を当てて
キーワード:学校教育の一環、自主的な活動、主体的な学び
企画趣旨
日本教育心理学会でハラスメント防止委員会が発足し,総会時に同委員会の企画する講演会やシンポジウムが開催されるようになって,今年度で9回目を迎える。これまでの企画では,主にハラスメントに対する会員への啓発的な内容が取り上げられてきた。昨年11月の同委員会で本年度の企画について話し合われ,われわれ教育心理学の教育,研究に携わる者として小学校~高校の教育現場でのハラスメントの実際をもっと知る必要があるのではないかという提案があった。たしかに,教育現場でのハラスメントがマスコミで伝えられることが少なくないにも拘わらず,その実態を深く知る機会は少ない。そこで,今回は教育現場でのハラスメントのうち,部活動に焦点を当てて,教育社会学と教育心理学の立場からこの問題を研究されている,それぞれ内田良氏と尾見康博氏の2人の研究者にご登壇いただき,教育現場のハラスメントについて深く知る機会としたい。
なお,指定討論者を本防止委員会専門委員の金子雅臣氏,司会を本企画立案の中心となった大塚雄作前委員長が務める。大塚氏は京都大学アメリカンフットボール部長の経験ももつ。
制度設計なき部活動のリスクと未来を考える
内田 良
本報告では,「制度設計の不備」の視点から,学校の部活動に付随するリスク(ハラスメントや事故)を検討する。学習指導要領において部活動は,教育課程外ではあるものの「学校教育の一環」として「生徒の自主的,自発的な参加により行われる」というかたちで,学校の教育活動のなかに位置づけられている。この中途半端な位置づけによって,生徒はさまざまなハラスメントや事故のリスクに晒される。
危険な場所での活動
部活動の練習はしばしば,廊下や階段を含むさまざまな空きスペースでおこなわれる。教育課程内の授業であれば,学習指導要領に定められた事項が適切に教育されるよう,施設(校舎外のグラウンドを含む)が用意されている。だが部活動においては,「学校教育の一環」であること以上の具体的な設計がなく,リソースも配分されていない。それゆえ一斉に部活動が開始されると,練習場所が不足し,不適当な空きスペースで練習がおこなわれ,事故のリスクが高まる。
問われる外部指導者の質
部活動では,人的資源(専門的指導者)も不足している。教員は,部活動指導の専門家ではない。その解決策として,外部指導者の導入が進められている。ところが外部指導者も不足しているため,その質が問われないままに,生徒の指導が任されていく。指導者が外部の者である場合,学校や教育委員会の管理が届きにくく,また暴言・暴行事案を起こしても,介入が難しい。
過熱が止まらない
教科というのは年間の標準的な時間数や単位数が決まっており,各クラスで時間割も組まれている。教えるべき内容も定まっている。このように制度設計が整っていると,50分の時間のなかで,授業が楽しくなる方法を教師は考える。他方で部活動では,活動時間をどれくらいに設定するかは,学校現場の自由裁量である。全国大会を頂点とする競争原理のもとに部活動が置かれている限りは,その活動実態はおのずと肥大化し,生徒に過酷な練習を突きつけることになる。
以上の3つのリスクを踏まえるならば,部活動を「自主的な活動」だと美化するわけにはいかない。むしろ,教育行政がそこに積極的に管理・介入することが,部活動のリスクを低減し,その持続可能性を高めていく。
『主体的な学び』はハラスメント構造に風穴を開けられるか
尾見康博
『ハラスメント』概念の登場によって,それまで後景に退いていたものが可視化され,女性をはじめ社会的弱者の(隠されていた)人権が認められるようになったことはたしかであろう。他方,現役大臣が「セクハラ罪という罪はない」と,セクハラの疑いのある部下をかばう発言をするなど,ハラスメントが軽く扱われることも少なくない。
部活においても,あたかも対応する刑罰がないから問題ないといわんばかりの指導がなされることがある。体罰を行使する指導者は体罰を『指導の一環』だと強弁することが多いし,身体的接触を伴わない怒号や罵声も「厳しい」「熱い」指導としていまだに受け入れられている。さらに深刻なのは,体罰を受けたと自認する者が受けた体罰を積極的にかつ前向きに容認していることであり,「たしかに殴られたが自分は体罰とは思っていない。厳しい指導をして下さって感謝している」といった受け止め方が珍しくないことである。
こうしたことの背景に,部活の集団組織としての特徴があると考えられる。そしてこの特徴は同時にハラスメントの背景にもなっていると考えられる。理不尽なことであっても顧問や先輩が絶対,といった『長幼の序』の過度の運用が部活において慣習化されていることがその一つである。たとえば,中学校に入ったとたん,誕生日が一日違うだけで「さん」とか「先輩」をつけて呼ばなければいけなくなったり敬語の使用が求められたりする。部活の場合にはさらに,後輩は先輩より先に集合しなければならない,などといった独自のルールが作られていることもある。こうした規律が厳しくなればなるほど,後輩は顧問や先輩に言われたことに疑問を感じても,何も言わずに黙って従うことが無難であり「正解」であり,主体的に考えないようになっていく。
逆に言えば,主体的に考えるような子どもたちばかりになれば,部活特有の規律は成立しにくくなる。そうした意味で,昨今の学校教育界隈で推奨されている『主体的な学び』に向けた積極的な取り組みは,部活の文化を変えることになるかもしれないし,逆に,部活が変わらなければ子どもたちに主体的に学ばせる習慣を身につけさせられなかったということになり,教育政策の失敗ということになるかもしれない。
参考文献
内田 良 (2019). 学校ハラスメント:暴力・セクハラ・部活動―なぜ教育は「行き過ぎる」か 朝日新書
内田 良ほか (2018). 調査報告 学校の部活動と働き方改革:教師の意識と実態から考える 岩波ブックレット
内田 良 (2017). ブラック部活動―子どもと先生の苦しみに向き合う 東洋館出版社
内田 良 (2015). 教育という病―子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 光文社新書
尾見康博 (2019). 日本の部活(BUKATSU)―文化と心理・行動を読み解く ちとせプレス
尾見康博 (2019). 日本の部活の特殊性 心と社会(日本精神衛生会),175,115-119.
Omi, Y. (2019). Corporal punishment in extracurricular sports activities (bukatsu) represents an aspect of Japanese culture. In L. Tateo., (ed.) Educational dilemmas: A Cultural psychological perspective. Routledge, pp.139-145.
Omi, Y. (2015). The potential of the globalization of education in Japan: The Japanese style of school sports activities (Bukatsu). In G. Marsico, V. Dazzani, M. Ristum, & A.C.S., Bastos (eds.) Educational contexts and borders through a cultural lens: Looking inside, viewing outside. Springer, pp.255-266.
日本教育心理学会でハラスメント防止委員会が発足し,総会時に同委員会の企画する講演会やシンポジウムが開催されるようになって,今年度で9回目を迎える。これまでの企画では,主にハラスメントに対する会員への啓発的な内容が取り上げられてきた。昨年11月の同委員会で本年度の企画について話し合われ,われわれ教育心理学の教育,研究に携わる者として小学校~高校の教育現場でのハラスメントの実際をもっと知る必要があるのではないかという提案があった。たしかに,教育現場でのハラスメントがマスコミで伝えられることが少なくないにも拘わらず,その実態を深く知る機会は少ない。そこで,今回は教育現場でのハラスメントのうち,部活動に焦点を当てて,教育社会学と教育心理学の立場からこの問題を研究されている,それぞれ内田良氏と尾見康博氏の2人の研究者にご登壇いただき,教育現場のハラスメントについて深く知る機会としたい。
なお,指定討論者を本防止委員会専門委員の金子雅臣氏,司会を本企画立案の中心となった大塚雄作前委員長が務める。大塚氏は京都大学アメリカンフットボール部長の経験ももつ。
制度設計なき部活動のリスクと未来を考える
内田 良
本報告では,「制度設計の不備」の視点から,学校の部活動に付随するリスク(ハラスメントや事故)を検討する。学習指導要領において部活動は,教育課程外ではあるものの「学校教育の一環」として「生徒の自主的,自発的な参加により行われる」というかたちで,学校の教育活動のなかに位置づけられている。この中途半端な位置づけによって,生徒はさまざまなハラスメントや事故のリスクに晒される。
危険な場所での活動
部活動の練習はしばしば,廊下や階段を含むさまざまな空きスペースでおこなわれる。教育課程内の授業であれば,学習指導要領に定められた事項が適切に教育されるよう,施設(校舎外のグラウンドを含む)が用意されている。だが部活動においては,「学校教育の一環」であること以上の具体的な設計がなく,リソースも配分されていない。それゆえ一斉に部活動が開始されると,練習場所が不足し,不適当な空きスペースで練習がおこなわれ,事故のリスクが高まる。
問われる外部指導者の質
部活動では,人的資源(専門的指導者)も不足している。教員は,部活動指導の専門家ではない。その解決策として,外部指導者の導入が進められている。ところが外部指導者も不足しているため,その質が問われないままに,生徒の指導が任されていく。指導者が外部の者である場合,学校や教育委員会の管理が届きにくく,また暴言・暴行事案を起こしても,介入が難しい。
過熱が止まらない
教科というのは年間の標準的な時間数や単位数が決まっており,各クラスで時間割も組まれている。教えるべき内容も定まっている。このように制度設計が整っていると,50分の時間のなかで,授業が楽しくなる方法を教師は考える。他方で部活動では,活動時間をどれくらいに設定するかは,学校現場の自由裁量である。全国大会を頂点とする競争原理のもとに部活動が置かれている限りは,その活動実態はおのずと肥大化し,生徒に過酷な練習を突きつけることになる。
以上の3つのリスクを踏まえるならば,部活動を「自主的な活動」だと美化するわけにはいかない。むしろ,教育行政がそこに積極的に管理・介入することが,部活動のリスクを低減し,その持続可能性を高めていく。
『主体的な学び』はハラスメント構造に風穴を開けられるか
尾見康博
『ハラスメント』概念の登場によって,それまで後景に退いていたものが可視化され,女性をはじめ社会的弱者の(隠されていた)人権が認められるようになったことはたしかであろう。他方,現役大臣が「セクハラ罪という罪はない」と,セクハラの疑いのある部下をかばう発言をするなど,ハラスメントが軽く扱われることも少なくない。
部活においても,あたかも対応する刑罰がないから問題ないといわんばかりの指導がなされることがある。体罰を行使する指導者は体罰を『指導の一環』だと強弁することが多いし,身体的接触を伴わない怒号や罵声も「厳しい」「熱い」指導としていまだに受け入れられている。さらに深刻なのは,体罰を受けたと自認する者が受けた体罰を積極的にかつ前向きに容認していることであり,「たしかに殴られたが自分は体罰とは思っていない。厳しい指導をして下さって感謝している」といった受け止め方が珍しくないことである。
こうしたことの背景に,部活の集団組織としての特徴があると考えられる。そしてこの特徴は同時にハラスメントの背景にもなっていると考えられる。理不尽なことであっても顧問や先輩が絶対,といった『長幼の序』の過度の運用が部活において慣習化されていることがその一つである。たとえば,中学校に入ったとたん,誕生日が一日違うだけで「さん」とか「先輩」をつけて呼ばなければいけなくなったり敬語の使用が求められたりする。部活の場合にはさらに,後輩は先輩より先に集合しなければならない,などといった独自のルールが作られていることもある。こうした規律が厳しくなればなるほど,後輩は顧問や先輩に言われたことに疑問を感じても,何も言わずに黙って従うことが無難であり「正解」であり,主体的に考えないようになっていく。
逆に言えば,主体的に考えるような子どもたちばかりになれば,部活特有の規律は成立しにくくなる。そうした意味で,昨今の学校教育界隈で推奨されている『主体的な学び』に向けた積極的な取り組みは,部活の文化を変えることになるかもしれないし,逆に,部活が変わらなければ子どもたちに主体的に学ばせる習慣を身につけさせられなかったということになり,教育政策の失敗ということになるかもしれない。
参考文献
内田 良 (2019). 学校ハラスメント:暴力・セクハラ・部活動―なぜ教育は「行き過ぎる」か 朝日新書
内田 良ほか (2018). 調査報告 学校の部活動と働き方改革:教師の意識と実態から考える 岩波ブックレット
内田 良 (2017). ブラック部活動―子どもと先生の苦しみに向き合う 東洋館出版社
内田 良 (2015). 教育という病―子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 光文社新書
尾見康博 (2019). 日本の部活(BUKATSU)―文化と心理・行動を読み解く ちとせプレス
尾見康博 (2019). 日本の部活の特殊性 心と社会(日本精神衛生会),175,115-119.
Omi, Y. (2019). Corporal punishment in extracurricular sports activities (bukatsu) represents an aspect of Japanese culture. In L. Tateo., (ed.) Educational dilemmas: A Cultural psychological perspective. Routledge, pp.139-145.
Omi, Y. (2015). The potential of the globalization of education in Japan: The Japanese style of school sports activities (Bukatsu). In G. Marsico, V. Dazzani, M. Ristum, & A.C.S., Bastos (eds.) Educational contexts and borders through a cultural lens: Looking inside, viewing outside. Springer, pp.255-266.