日本教育心理学会第61回総会

講演情報

自主企画シンポジウム

[JF08] JF08
越境的マインドセット創りに向けて

2019年9月15日(日) 16:00 〜 18:00 3号館 3階 (3310)

企画・話題提供:野村亮太(鹿児島純心女子大学)
企画・司会:小田部貴子(九州産業大学)
企画・指定討論:丸野俊一(九州大学)
話題提供:香川秀太(青山学院大学)
話題提供:田島充士(東京外国語大学)
指定討論:小澤基弘#(埼玉大学)

[JF08] 越境的マインドセット創りに向けて

野村亮太1, 小田部貴子2, 丸野俊一3, 香川秀太4, 田島充士5, 小澤基弘#6 (1.鹿児島純心女子大学, 2.九州産業大学, 3.九州大学, 4.青山学院大学, 5.東京外国語大学, 6.埼玉大学)

キーワード:越境的マインドセット、対話、表現

越境的マインドセットとは何か
 私たちは激動の時代に生きている。発信が手軽にできるようになった現代では,発信者と受信者の区別はあいまいになり,情報は行き交うようになった。また,大地震をはじめとする災害により,これまでとは異なる地域に住むことを余儀なくされたり,慣れ親しんだ営みができなくなってしまうことも少なくはない。こうした不確かな状況下では,異なる社会に暮らす者たちが,これまで以上に出会い,相互交流することになる。そのようなとき,新たなコミュニティは,円滑に作り上げられていくとは限らない。出会い,話し,ともに活動することを通して,それぞれが生きてきた社会や文化の違いが浮き彫りになり,相手との境界が意識されることも多い。時に情緒的な葛藤も生じて,かつてのコミュニティを回顧しては懐かしんだり,現状に対して不満を抱いたりということもあるだろう。
 激動の時代にあって,旧来のコミュニティをそのまま存続させることができないとすれば,コミュニティの成員たちには,コミュニティのあり方やそのコミュニティ内外での個人のふるまい方について,新たな様相を模索するような対話が求められるようになる。しかしそのような場面において,潜在的に境界が越えられたり,壊されたりしうる状況に立ち会っていても,ある人は旧来の社会・文化的な営みが当たり前になりすぎて,そうした境界の存在にそもそも気づかないことがある。他方,ある人は状況に内包される意味に敏感に気づくことができるかもしれない。また,差異や違和感に気づいたときでも,すべての人がそうした境界を乗り越え新たな協働を模索するわけではない。中には境界を越えて新たなコミュニティを作ろうとする者がいるが,他方ではこれまでの境界を維持・強化しようとする者もいるからである。
 本企画では,こうした人の行動の差を説明する心理的構成概念として「越境的マインドセット」を提案したい。これは,簡単に言えば,文脈が有する意味に敏感に気づき,そのうえで,境界を越えていこうとする人が持つ心の特性のことである。そもそも,マインドセットとは,個人が持つ認知的な枠組みを指し,知覚特性や行動パターンに影響を与えることが知られている。例えば,固定観念やバイアスによって固定化されたマインドセットは,作業や仕事への集中を可能にするが,その一方で情勢や事態が変化する不確かな状況下では,統制可能性の危機を生み,不安につながる。それに対して,他者や環境に開かれ,かつ,しなやかマインドセットを有するとき,人は情報を探索して統合したり,芸術分野に限らず仕事や学業,さらにはインフォーマルな社会的活動において,新たなアプローチを創造しようと志向する。
 したがって,越境的マインドセットとは,状況に内包されている意味に敏感に気づき,境界を乗り越えていこうとする心の構えに他ならない。それゆえ越境的マインドセットには,越境への気づきをもたらす知覚パターン,境界を越えようとする意図の働き,そうしたプランに基づく実際の行為が深く関与していると考えられる。加えて,こうした認知・行動上の特性は,その背景に「他者とのかかわりや協働によって学ぶことができる」といった協働に織り込まれた学びに関する認識上の信念も関わると予想される。
 この意味では,越境的マインドセットは,状況に開かれたアプローチで世界と関わろうとする態度や志向性が伴った心の構えである。それゆえ,越境的マインドセットの前提として,ある状況を所与のものとするのではなく,個人が自分自身を「他者や物理的な状態を含め,環境に働きかけて,その環境に変化を与えることができる者」として捉えることが求められる。また,越境的マインドセットは,個人内で一貫性がありながらも,他者とのやりとりやメディア上でのやりとりといった社会・文化的交流を経て比較的ゆっくりと変容しうるものだと私たちは仮定している。

越境と教育心理学における意義
 読者に誤解のないように一つだけ註釈を加えると,社会や文化に存在する境界(boundary)は,必ずしも乗り越える・解消する・破壊するべきものばかりではない。境界は,コミュニティ内の結束を高めるものであり,同時に,コミュニティ外部とかかわりを遮断するものである。境界は利益をもたらすものであり,また,自由な行き来を阻害するものでもある。それゆえに越境(cross boundary)もまた,根源的に両義的なものになる。境界を守ろうとする者から見れば非常に破壊的な行為である。一方,既存の枠組みでは見られなかった新しい協働の形を模索しようとする者から見れば,それは創造的な行為である。この両義性により,越境がもたらす影響のよしあしは一概に決定することはできない。境界が前景化するような状況では,そうした決めつけの議論ではなく,むしろ,コミュニティのあり方についてどのような様相や在り方がありうるかを模索する対話が,根本的には必要になる。
 こうした対話が成立するための条件の一つとして越境的マインドセットを想定する本企画では,教育心理学の今日的課題として,学生に越境的マインドセットをどのようにすれば涵養できるかを考えたい。
 そこで,本企画では,次の3名による話題提供を行う。野村亮太は,心理学という学問的背景を持ちながら研究の発展を目指して工学系の大学院を修了した越境の当事者として話す。田島充士は,現代においてもなおコミュニケーション論の参照枠として国際的に評価されるバフチンの対話理論の観点から,生産的な異文化間コミュニケーションを実現し,またそれを実現し得る人格形成のあり方に関するアイディアを提供する。香川秀太は,資本主義の下での学習観を相対化する「世界史」の視座で活動理論やパフォーマンス心理学の先に関係論の将来を見据え,ポスト社会構成主義の行く末を汲み取るための理論的枠組みを提供する。
 当事者から教育の場面への広がり,さらにいくつもの時代を俯瞰する理論的枠組みへと展開する話題提供に対して,丸野俊一が子どもや大学生の学びの観点から,また,小澤基弘が図工・美術における対話の観点から指定討論を行う。本企画では,こうした多彩な分野からの視点の絡み合いを企図し,そうした相互交渉を通して越境的マインドセットづくりへ向けた議論を行いたい。
 以下,各話題提供者による発表内容の概要を紹介する。

意味を読む心理学・手法を造る工学
野村亮太 
 私は噺家の熟達化について研究をしている。ある理系の先生に共同研究を持ちかけたところ,数学とプログラミングの能力不足で断られた。これを契機に,私は工学研究院に入学を決めた。研究室では,数や量といった概念の扱い方の違いに始まり,研究室の物理的環境や学生の指導方法など,様々な違いを突きつけられた。時には葛藤しながら,年下の先輩に多くの支援を受けて,この3月に修了した。心理学が意味(解釈)を基盤にするのに対し,工学では手法の確かさを基盤にしている。越境的なマインドセットは,いつも揺らいでおり,私の場合には,強い動機づけと専門性への信頼,先輩からのアドバイスが支えになった。口にするのはたやすいが,持ち続けるのはかなりしんどい。いつも越境ができるなどという言説は,信用できないと,発表者は考えている。

対話を実現する越境的マインドセットとしての他者の異質さへのセンシティビティ:バフチン・対話理論の観点から
田島充士
 ロシア(旧ソ連)において1920年代以降に活躍した文芸学者・M.M.バフチンは,異質な文脈を背景とする者同士の越境的なコミュニケーションを特に弁別して「対話」と呼んだ。同時に,話者同士が個々に独自の意識世界(想像上の他者との「内的対話」)を抱えながら,実在の他者と関わり合い続けることで,互いの意識世界が同時に豊かになるという対話のあり方を生産的なものとして理想化した。そして,この種のコミュニケーション状況を「ラズノレーチエ(英語ではヘテログロシアと訳される)」と呼んだ。無論,すべてのコミュニケーションがラズノレーチエになると想定されていたわけではない。バフチンの論を発展的に解釈するならば,他者が抱える異質さへの話者のいわば「センシティビティ(敏感さ)」という越境的マインドセットを欠如したままでは,相手が抱える独自の視点の無視・軽視につながり,互いの意識世界の豊富かどころか,コミュニケーションの破綻も招きかねないと読み解くことができる。本発表ではこのセンシティビティに着目し,著者が関わってきた異文化間コミュニケーションの促進を目指した,大学生を対象とした教育事例も交え,より豊かな対話の実現に向けた条件について論じていく。

ポスト社会構成主義へ:関係論のその先へ
香川 秀太
 正統的周辺参加,拡張的学習,パフォーマンス心理学へ…と,関係論(状況論)の枠組みは一見,変遷してきたように見える。それらは,従来の個体主義や知識中心主義に対するオルタナティブとして新たな可能性を広げる一方で,しかし,いずれも結局は徒弟的,争覇的ゆえに,自らの枠組みに回収される傾向もあった。むろん,それらの歴史性は継承しつつも,知らず内に構成されるその枠組みという境界を同時に少しでも乗り越えることはできないか。発表者はその契機が,関係論に内包されつつも取りこぼされてきたポスト資本主義,あるいは世界史という歴史層の前景化にあると考えている。例えば,現在あちこちにある専門職間の境界もまた,近代国家の成立や産業資本主義の発展と切り離せない。行政,企業,コミュニティ,この三者間の歴史的な境界を超え,子作り・共同保育(脱他者論)を土台に交歓させる活動が,ポスト資本制の鍵となる。本発表では,ポスト資本制とフィールド研究とを接合することで生まれうる,ポスト社会構成主義について論じる。