[PD41] 「いじめ」言説における構造的な矛盾とその打開
文法論に基づく考察
キーワード:いじめ、言説分析、文法構造
問 題
深刻な社会問題化の中,「いじめ」に関する報道や対策,論評等,膨大な言説が日々流通し続けている。しかしこの事態は,結果として「いじめ」の本質を見えにくくし,問題の解決を遠ざける。
日本語文法論を援用してこの逆説的な構造を摘出するとともに,こうした事態を打開するための言説実践の方向性を検討する。
分 析
「いじめ」とは,集団内の加害側が被害側に深刻な苦痛を与える事象であり,犯罪にも相当する悪質な行為であると位置づけられている。しかし,
【1】「いじめられる」とは,単に被害を受けるだけでなく,犠牲者がその被害を認識し意味づける権限すらも奪われる,いっそう深刻な事態である。
文法的に見ると,受動形は能動形の単なる裏返しを超えた,「主体的に事態を制御できない状態へ一方的に追いやられてしまうこと」を意味する。
「本人のため厳しく接しただけ」「いじられて本人も喜んでいる」等,当人の意志が無視されて事態を恣意的に定義づけられ,被害認識すら歪曲,無視されるのが「いじめ」の本質である。
【2】「いじめる」ことは被害者に向けられた加害行為にとどまらず,「対象を恣意的に頤使し,その置かれた状況を含め影響を及ぼすこと」である。
そもそも被害者は対等な主体とみなされず,時に事物同然の一方的かつ恣意的な扱いを被る。
能動形の「いじめる」操作は,被害者を直接の行為対象としなくても成立する。「あの子に話しかけては駄目」等,周囲に働きかけ本人を孤立させ,その主体性を無化することが「いじめ」である。
【3】これらの操作は,主体的な加害意図や明確な目的意識を伴わずに遂行される。意図的な加害行為と同一視すると「いじめ」の本質を見落とす。
「いじめる」という動詞は無対他動詞に分類される。いじる,からかう等と同様,対象に不可逆的な変化をもたらさず,しかしそれ故,無限に反復され得る操作であることを特徴とする。
無対他動詞は,操作の結果でなくプロセスに着目する。「いじめる」行為の渦中にある当事者は,結果としての死や犯罪等は意識せず,ただ気晴らしや盛り上がり,周囲への同調等,一時のプロセスにのみ着目し,それを反復しているに過ぎない。
だからこそ,プロセスの反復に耐えかねた被害者の自死など,取り返しのつかない結果が生じて初めて事態の深刻さを認識する。「相手も喜んでいると思っていた」「まさか死ぬとは思わなかった」等の発言は,加害者の自己弁護である以上に,偽らざる状況認識であると考えなくてはならない。
【4】すなわち,取り返しのつかない不可逆的な事態が発生して初めて,それまで判然としなかった集合体の挙動が問題視され,犠牲者の悲痛が語られ,犯罪的な行為として加害者が指弾される。
ここでは常に原理的な遅延が発生する。プロセスの渦中にはただ集合体の変調があるだけで,加害者も被害者も,行為すらも,明確には存在しない。取り返しのつかない事態が発生して初めて,事態とその関係者とが特定される。
考 察
「いじめ」という語を記述に無造作に用いる限り,渦中では事態の本質を特定できない。われわれは常に,また構造的に,手遅れになってから問題を論じることになる。必要なことは,「いじめ」という語の文法的な制約を自覚すると同時に,それを前提とした記述のあり方を模索することである。
1.「いじめ」の語に捕らわれない行為記述
上述した記述の盲点を特定し言説化することは,端的に「いじめ」の発見と抑止につながる。たとえば一方的な「指導」や芸の強要など,相互性を欠いたコミュニケーションと,受け手によるその自覚なき受容を問題視しなくてはならない。
2.無対他動詞的事象の把握と対応
結果を意識せず,ただプロセスを受容する操作が集合体に危険をもたらす。笑い,からかい等の執拗な反復,極端なしつこさ等は警戒すべき事象である。逆に,明確な目的があり結果を念頭に置いた行為,授業に代表される教育活動こそが「いじめ」の対極でありその予防にもつながる。
3.集団状況の命名
「いじめ」という語の制約を,逆に集合体の状況を自覚するための記述へと生かす必要がある。筆者が教師教育に導入を試みている「いじめ誘発的コミュニティ」「いじめ型コミュニケーション」等の命名実践,プロセスの変化に着目した「火事のメタファー」等について当日詳述する。
引用文献
八ッ塚一郎(2014).「いじめ」の言説構造に関する試論:日本語文法論からの視座 熊本大学教育学部紀要63
付 記
本研究の実施にあたり下記の助成を受けた。JSPS KAKENHI Grant Number JP18K03008
深刻な社会問題化の中,「いじめ」に関する報道や対策,論評等,膨大な言説が日々流通し続けている。しかしこの事態は,結果として「いじめ」の本質を見えにくくし,問題の解決を遠ざける。
日本語文法論を援用してこの逆説的な構造を摘出するとともに,こうした事態を打開するための言説実践の方向性を検討する。
分 析
「いじめ」とは,集団内の加害側が被害側に深刻な苦痛を与える事象であり,犯罪にも相当する悪質な行為であると位置づけられている。しかし,
【1】「いじめられる」とは,単に被害を受けるだけでなく,犠牲者がその被害を認識し意味づける権限すらも奪われる,いっそう深刻な事態である。
文法的に見ると,受動形は能動形の単なる裏返しを超えた,「主体的に事態を制御できない状態へ一方的に追いやられてしまうこと」を意味する。
「本人のため厳しく接しただけ」「いじられて本人も喜んでいる」等,当人の意志が無視されて事態を恣意的に定義づけられ,被害認識すら歪曲,無視されるのが「いじめ」の本質である。
【2】「いじめる」ことは被害者に向けられた加害行為にとどまらず,「対象を恣意的に頤使し,その置かれた状況を含め影響を及ぼすこと」である。
そもそも被害者は対等な主体とみなされず,時に事物同然の一方的かつ恣意的な扱いを被る。
能動形の「いじめる」操作は,被害者を直接の行為対象としなくても成立する。「あの子に話しかけては駄目」等,周囲に働きかけ本人を孤立させ,その主体性を無化することが「いじめ」である。
【3】これらの操作は,主体的な加害意図や明確な目的意識を伴わずに遂行される。意図的な加害行為と同一視すると「いじめ」の本質を見落とす。
「いじめる」という動詞は無対他動詞に分類される。いじる,からかう等と同様,対象に不可逆的な変化をもたらさず,しかしそれ故,無限に反復され得る操作であることを特徴とする。
無対他動詞は,操作の結果でなくプロセスに着目する。「いじめる」行為の渦中にある当事者は,結果としての死や犯罪等は意識せず,ただ気晴らしや盛り上がり,周囲への同調等,一時のプロセスにのみ着目し,それを反復しているに過ぎない。
だからこそ,プロセスの反復に耐えかねた被害者の自死など,取り返しのつかない結果が生じて初めて事態の深刻さを認識する。「相手も喜んでいると思っていた」「まさか死ぬとは思わなかった」等の発言は,加害者の自己弁護である以上に,偽らざる状況認識であると考えなくてはならない。
【4】すなわち,取り返しのつかない不可逆的な事態が発生して初めて,それまで判然としなかった集合体の挙動が問題視され,犠牲者の悲痛が語られ,犯罪的な行為として加害者が指弾される。
ここでは常に原理的な遅延が発生する。プロセスの渦中にはただ集合体の変調があるだけで,加害者も被害者も,行為すらも,明確には存在しない。取り返しのつかない事態が発生して初めて,事態とその関係者とが特定される。
考 察
「いじめ」という語を記述に無造作に用いる限り,渦中では事態の本質を特定できない。われわれは常に,また構造的に,手遅れになってから問題を論じることになる。必要なことは,「いじめ」という語の文法的な制約を自覚すると同時に,それを前提とした記述のあり方を模索することである。
1.「いじめ」の語に捕らわれない行為記述
上述した記述の盲点を特定し言説化することは,端的に「いじめ」の発見と抑止につながる。たとえば一方的な「指導」や芸の強要など,相互性を欠いたコミュニケーションと,受け手によるその自覚なき受容を問題視しなくてはならない。
2.無対他動詞的事象の把握と対応
結果を意識せず,ただプロセスを受容する操作が集合体に危険をもたらす。笑い,からかい等の執拗な反復,極端なしつこさ等は警戒すべき事象である。逆に,明確な目的があり結果を念頭に置いた行為,授業に代表される教育活動こそが「いじめ」の対極でありその予防にもつながる。
3.集団状況の命名
「いじめ」という語の制約を,逆に集合体の状況を自覚するための記述へと生かす必要がある。筆者が教師教育に導入を試みている「いじめ誘発的コミュニティ」「いじめ型コミュニケーション」等の命名実践,プロセスの変化に着目した「火事のメタファー」等について当日詳述する。
引用文献
八ッ塚一郎(2014).「いじめ」の言説構造に関する試論:日本語文法論からの視座 熊本大学教育学部紀要63
付 記
本研究の実施にあたり下記の助成を受けた。JSPS KAKENHI Grant Number JP18K03008