[PE31] 仮説実験授業のたのしさを決めるもの(5)全脳参与の可能性
脳科学・AI研究を参照しつつ,命題学習には尽きない「全脳参与型学習」が持つ可能性について考える
キーワード:仮説実験授業、全脳参与型学習、認知的個性
問題と目的
教育心理学は「学び手による」学習とも関わるはずだが,「学習者の認知的個性」,いわんやその「脳科学的基盤」についての関心はまだ高くない。本稿第一の目的は,教育心理学にとっての脳科学研究の有用性を示すことである。筆者には思わぬ発見があった。仮説実験授業(以下「仮説」)で学び手が感じる「多様なたのしさ」が,実は彼らの「認知的個性」(学習において優勢な脳内ニューラルネットワーク(以下NN)の種類)を反映したものである可能性が判明したのだ。それを虫明元(2018)の「学ぶ脳」理論に依拠しつつ明らかにする。また,つまり「仮説」の「個性を選ばないたのしさ」が,学習で前提とされるNNが「執行系」に限定されていないことに依ること,即ち学習への「全脳参与」が許されているからこそのものであることを示し,「全脳参与型学習」としての「仮説」の望ましさを主張したい。なお,「全脳参与型学習」の提案は過去の構成論的人工知能研究の失敗にも学んでおり(命題形式の記号演算モデルのみでは人間の知能の再現は不可能だった),現在の虫明理論にまだ不足があったとしても,提案の妥当性は減じない。学び手の個性に優しく,人間らしくもある学びの実現には,「全脳参与型学習」は極めて有効であると考える。本稿第二の目的は,教育心理学的方法論の拡大である。教育心理学が脳科学に学ぶことはこれまで余りなかったようであるが,もし仮に脳科学研究に学び「推論における情動の重要性」(例,ダマシオ,1994)を意識するようになっていたなら,情動抜きの「干からびた教育論」(品川嘉也にヒントを得た命名)で他でもない人間の学びを機械化してしまう暴挙は避けられたであろうし,大隅典子(2016)と同じ洞察に辿り着いていたなら(「脳の複雑さはバグの生まれやすさをも含意しており,完全な脳など存在しない」),誰しもが出発点とする他ない「不完全な脳」(つまり「認知的個性」)について,またそこからの出発しかあり得ないという事実について,より深い理解が可能になっていたのではないかと考える。教育心理学には脳科学との対話が有用だ。それを本稿では示したい。
方 法
授業書《花と実》の授業記録(西川,1988;出口,2006;小池,1986,1988;竹田,2012;田中,2013)他から生徒たちが口にする「授業のたのしさの色々」を抽出し,虫明(2018)の「学ぶ脳」モデルとの対応づけを試みた。虫明のモデルは以下である。「学ぶ脳」には主体となる脳内NNによって4種類ある。「学習脳0」は感覚運動ネットワーク(SMN)主体の「身体脳」,「学習脳1」は皮質下ネットワーク(SCN)主体の「記憶脳」,「学習脳2」は執行系ネットワーク(CEN)主体の「認知脳」,「学習脳3」は基本系ネットワーク(DMN)主体の「社会脳」であり,これらの脳のそれぞれが,学習経験を蓄積してゆく。(学習脳1と2は,それぞれデュアル・プロセス・モデルの「速い自動的思考システム1」と「遅い熟慮型思考システム2」,学習理論における「行動主義」(ボトムアップな連合説)と「認知主義」(トップダウンでメタ的な把握)にも対応させられており含意に富む)。学習脳0(身体脳)は最も早くに形成されて意識下での自動運転を可能にし,学習脳1(記憶脳)が無意識・意識双方の記憶を支えているかんに記号操作による意識的学習を司る学習脳2(認知脳)が徐々に形成されてゆく(認知脳の主部である前頭前野は髄鞘化の完成を20歳代に待つ形成の遅さである)。上記のように,異なる学習脳にそれぞれ参加する各NNであるが,それらは互いに協働関係にもあり,例えば仮説検証型認識活動においては仮説生成の為のDMNと仮説検証の為のCENとが協働している。帰納的枚挙を待たない仮説生成は一種の「物語り」であると考えられ(筆者),仮説を案出することが好きな子においてはナラティブ的発散的思考を司るDMNが活動的であり,考えを生むというよりは実験にかけて吟味することが好きな子においては分析的収束的思考を司るCENが活動的であると考えることが合理的である。優勢・劣勢のNNの組み合わせが,認知的個性を決定する。
結果と考察
「仮説」のたのしさを「学習脳」毎に以下数例ずつ記述する。「仮説」ではどのような個性にもたのしさが保証されている。「身体脳」:運動的たのしさ(思わず身体の動きに顕れてしまう授業での喜怒哀楽はなんら拘束の対象ではない),感覚的たのしさ(観察対象である果物は観るだけでなく食べもする)。「記憶脳」:作業記憶が小さくCENに負荷がかかり易い子には皮質下での学びのたのしさが用意されている(予想が外れれば「危険回避」の扁桃体による学習が,予想が当たれば「報酬接近」の大脳基底核による学習が発生するが,これは概念的理解には媒介されない「現象の規則性の直接的学習」を可能にする。西川浩司はこれを「直観の科学化」と呼んだ。命題学習が苦手でも事象からの直接学習が可能となる経路である),予想が当たるたのしさ(報酬系である大脳基底核が活躍する)。「認知脳」:仮説的思考のたのしさ,立論するたのしさ,反証に学んで概念を覆すたのしさ(反証に敏感な概念的思考は,記憶脳による意識下のパターン学習とは異なり反証事例の帰納的枚挙を待たない。それが概念的思考の可能性でもあり限界でもある),予想が外れるたのしさ(「予想は外れてこそ新たな発見を生む」という,皮質下の記憶脳にはなかった意識的な学び。記憶脳では外れて悔しかった予想が,認知脳ではたのしくなる)。「社会脳」:意見の異なる他者と議論するたのしさ,真理が多数決では決まらないことを発見するたのしさ。「学習脳全て」:乳児にも見られる「脱馴化」のたのしさ(当然視できず説明不可能な出来事の出現は最も原初的な学びの動機づけであり,古くはソクラテスも「エレンコス」として概念化した),発見のたのしさ(発見の感動は記憶の中でも基礎的な「感情記憶」に痕跡を残す。何がたのしいかは認知的個性に依っても,たのしいという感情記憶自体は個性共通である。認知機能が衰えた認知症患者においても頑健に残るのが感情記憶とされており,いわば深部に位置するその重要性を顧慮すれば,「感情記憶の土台」づくりは「全脳参与型学習」においては要とすべきものかもしれない),ベイジアン・プロセス(BP)のたのしさ(「誤差最小化原理」に従いつつ予測の修正を繰り返すことでランダムなモデルからでも正しいモデルを生み出しうるのがBPである。BPがあるからこそ多様な個性に始まる認識活動が(個性を残しつつも)最終的には普遍的理解を生んでくれる(意識・無意識のBPがある)。正しくとも学び手の手には余るモデルを最初から教え込むのではなく,学び手の関心にも認知的個性にも適合した出発点を用意した上でそこからのBPを支援することが,「仮説」成功の鍵であると考える。予想が外れる悔しさは発見を伴うことで甘受可能となるが,更にBPを介することで,当たる予想のたのしさへと変化する。学び手達をわくわくさせ,自信をも生み出すBPである)。
結 語
虫明理論の援用で明らかとなったように,「仮説」では全ての学習脳(全ての個性)に学習参加が開かれている。又,学習に関わる脱馴化とBPは乳児期より脳に備わる個性以前の原初的学びの機構で,これらも個性に依らず学習機会を保証してくれる。つまり「仮説」は学び手を選ばない。が,それだけではない。全学習脳の参加は学習活動に(生き甲斐ともなり得るような学びなら持つであろう)躍動性と全体性とを回復させ,命題学習には尽きない有機的な学びを実現している。研究者も自由に全脳を使いながら研究している。そのたのしさを子ども達には拒否できるのか。全脳を巻き込む「全脳参与型学習」に学びたい。
教育心理学は「学び手による」学習とも関わるはずだが,「学習者の認知的個性」,いわんやその「脳科学的基盤」についての関心はまだ高くない。本稿第一の目的は,教育心理学にとっての脳科学研究の有用性を示すことである。筆者には思わぬ発見があった。仮説実験授業(以下「仮説」)で学び手が感じる「多様なたのしさ」が,実は彼らの「認知的個性」(学習において優勢な脳内ニューラルネットワーク(以下NN)の種類)を反映したものである可能性が判明したのだ。それを虫明元(2018)の「学ぶ脳」理論に依拠しつつ明らかにする。また,つまり「仮説」の「個性を選ばないたのしさ」が,学習で前提とされるNNが「執行系」に限定されていないことに依ること,即ち学習への「全脳参与」が許されているからこそのものであることを示し,「全脳参与型学習」としての「仮説」の望ましさを主張したい。なお,「全脳参与型学習」の提案は過去の構成論的人工知能研究の失敗にも学んでおり(命題形式の記号演算モデルのみでは人間の知能の再現は不可能だった),現在の虫明理論にまだ不足があったとしても,提案の妥当性は減じない。学び手の個性に優しく,人間らしくもある学びの実現には,「全脳参与型学習」は極めて有効であると考える。本稿第二の目的は,教育心理学的方法論の拡大である。教育心理学が脳科学に学ぶことはこれまで余りなかったようであるが,もし仮に脳科学研究に学び「推論における情動の重要性」(例,ダマシオ,1994)を意識するようになっていたなら,情動抜きの「干からびた教育論」(品川嘉也にヒントを得た命名)で他でもない人間の学びを機械化してしまう暴挙は避けられたであろうし,大隅典子(2016)と同じ洞察に辿り着いていたなら(「脳の複雑さはバグの生まれやすさをも含意しており,完全な脳など存在しない」),誰しもが出発点とする他ない「不完全な脳」(つまり「認知的個性」)について,またそこからの出発しかあり得ないという事実について,より深い理解が可能になっていたのではないかと考える。教育心理学には脳科学との対話が有用だ。それを本稿では示したい。
方 法
授業書《花と実》の授業記録(西川,1988;出口,2006;小池,1986,1988;竹田,2012;田中,2013)他から生徒たちが口にする「授業のたのしさの色々」を抽出し,虫明(2018)の「学ぶ脳」モデルとの対応づけを試みた。虫明のモデルは以下である。「学ぶ脳」には主体となる脳内NNによって4種類ある。「学習脳0」は感覚運動ネットワーク(SMN)主体の「身体脳」,「学習脳1」は皮質下ネットワーク(SCN)主体の「記憶脳」,「学習脳2」は執行系ネットワーク(CEN)主体の「認知脳」,「学習脳3」は基本系ネットワーク(DMN)主体の「社会脳」であり,これらの脳のそれぞれが,学習経験を蓄積してゆく。(学習脳1と2は,それぞれデュアル・プロセス・モデルの「速い自動的思考システム1」と「遅い熟慮型思考システム2」,学習理論における「行動主義」(ボトムアップな連合説)と「認知主義」(トップダウンでメタ的な把握)にも対応させられており含意に富む)。学習脳0(身体脳)は最も早くに形成されて意識下での自動運転を可能にし,学習脳1(記憶脳)が無意識・意識双方の記憶を支えているかんに記号操作による意識的学習を司る学習脳2(認知脳)が徐々に形成されてゆく(認知脳の主部である前頭前野は髄鞘化の完成を20歳代に待つ形成の遅さである)。上記のように,異なる学習脳にそれぞれ参加する各NNであるが,それらは互いに協働関係にもあり,例えば仮説検証型認識活動においては仮説生成の為のDMNと仮説検証の為のCENとが協働している。帰納的枚挙を待たない仮説生成は一種の「物語り」であると考えられ(筆者),仮説を案出することが好きな子においてはナラティブ的発散的思考を司るDMNが活動的であり,考えを生むというよりは実験にかけて吟味することが好きな子においては分析的収束的思考を司るCENが活動的であると考えることが合理的である。優勢・劣勢のNNの組み合わせが,認知的個性を決定する。
結果と考察
「仮説」のたのしさを「学習脳」毎に以下数例ずつ記述する。「仮説」ではどのような個性にもたのしさが保証されている。「身体脳」:運動的たのしさ(思わず身体の動きに顕れてしまう授業での喜怒哀楽はなんら拘束の対象ではない),感覚的たのしさ(観察対象である果物は観るだけでなく食べもする)。「記憶脳」:作業記憶が小さくCENに負荷がかかり易い子には皮質下での学びのたのしさが用意されている(予想が外れれば「危険回避」の扁桃体による学習が,予想が当たれば「報酬接近」の大脳基底核による学習が発生するが,これは概念的理解には媒介されない「現象の規則性の直接的学習」を可能にする。西川浩司はこれを「直観の科学化」と呼んだ。命題学習が苦手でも事象からの直接学習が可能となる経路である),予想が当たるたのしさ(報酬系である大脳基底核が活躍する)。「認知脳」:仮説的思考のたのしさ,立論するたのしさ,反証に学んで概念を覆すたのしさ(反証に敏感な概念的思考は,記憶脳による意識下のパターン学習とは異なり反証事例の帰納的枚挙を待たない。それが概念的思考の可能性でもあり限界でもある),予想が外れるたのしさ(「予想は外れてこそ新たな発見を生む」という,皮質下の記憶脳にはなかった意識的な学び。記憶脳では外れて悔しかった予想が,認知脳ではたのしくなる)。「社会脳」:意見の異なる他者と議論するたのしさ,真理が多数決では決まらないことを発見するたのしさ。「学習脳全て」:乳児にも見られる「脱馴化」のたのしさ(当然視できず説明不可能な出来事の出現は最も原初的な学びの動機づけであり,古くはソクラテスも「エレンコス」として概念化した),発見のたのしさ(発見の感動は記憶の中でも基礎的な「感情記憶」に痕跡を残す。何がたのしいかは認知的個性に依っても,たのしいという感情記憶自体は個性共通である。認知機能が衰えた認知症患者においても頑健に残るのが感情記憶とされており,いわば深部に位置するその重要性を顧慮すれば,「感情記憶の土台」づくりは「全脳参与型学習」においては要とすべきものかもしれない),ベイジアン・プロセス(BP)のたのしさ(「誤差最小化原理」に従いつつ予測の修正を繰り返すことでランダムなモデルからでも正しいモデルを生み出しうるのがBPである。BPがあるからこそ多様な個性に始まる認識活動が(個性を残しつつも)最終的には普遍的理解を生んでくれる(意識・無意識のBPがある)。正しくとも学び手の手には余るモデルを最初から教え込むのではなく,学び手の関心にも認知的個性にも適合した出発点を用意した上でそこからのBPを支援することが,「仮説」成功の鍵であると考える。予想が外れる悔しさは発見を伴うことで甘受可能となるが,更にBPを介することで,当たる予想のたのしさへと変化する。学び手達をわくわくさせ,自信をも生み出すBPである)。
結 語
虫明理論の援用で明らかとなったように,「仮説」では全ての学習脳(全ての個性)に学習参加が開かれている。又,学習に関わる脱馴化とBPは乳児期より脳に備わる個性以前の原初的学びの機構で,これらも個性に依らず学習機会を保証してくれる。つまり「仮説」は学び手を選ばない。が,それだけではない。全学習脳の参加は学習活動に(生き甲斐ともなり得るような学びなら持つであろう)躍動性と全体性とを回復させ,命題学習には尽きない有機的な学びを実現している。研究者も自由に全脳を使いながら研究している。そのたのしさを子ども達には拒否できるのか。全脳を巻き込む「全脳参与型学習」に学びたい。