日本地球惑星科学連合2014年大会

講演情報

口頭発表

セッション記号 S (固体地球科学) » S-SS 地震学

[S-SS30_29PM2] 海溝型巨大地震の新しい描像

2014年4月29日(火) 16:15 〜 18:00 メインホール (1F)

コンビーナ:*金川 久一(千葉大学大学院理学研究科)、古村 孝志(東京大学大学院情報学環総合防災情報研究センター)、小平 秀一(海洋研究開発機構 地球内部ダイナミクス領域)、宍倉 正展(産業技術総合研究所 活断層・地震研究センター)、座長:宍倉 正展(産業技術総合研究所 活断層・地震研究センター)

17:15 〜 17:30

[SSS30-35] 延宝五年十月九日(1677-XI-7)房総沖地震津波の被災範囲

*矢沼 隆1都司 嘉宣2平畑 武則1馬淵 幸雄3大家 隆行3岡田 清宏3今井 健太郎4岩渕 洋子5今村 文彦4 (1.(株)パスコ、2.深田地質研究所、3.パシフィックコンサルタンツ(株)、4.東北大学災害科学国際研究所、5.原子力安全基盤機構)

キーワード:歴史地震, 歴史津波, 房総沖地震, 首都圏, 伊勢湾, 紀伊半島

江戸時代前半の延宝五年十月九日(1677-XI-7)の夜五ツ時(20時頃)に房総沖海域に発生した地震は、揺れによる被害は起きていない。また有感地震の範囲は、房総半島と江戸に限られる。このように地震の揺れが小さかった割に津波被害が大きかった。この津波による最大被災地となったのは房総半島の勝浦・銚子間であった。江戸時代初期の幕府の根本史料の一つである『玉露叢』に房総半島の津波被害の詳細が記録されている。現在の勝浦市域にある川津村で倒家19軒、死者3人、沢倉村では倒家11軒、死者2人、新官村では倒家17軒、死者2人の津波被害を生じた。流失家屋が総家屋数の10%かそれ以上生じた場合、その場所の地上冠水厚さは2.0mと推定されることから(羽鳥、1984、越村ら、2009など参照)、この3村での津波浸水高さはそれぞれ8.0m、8.5m、6.3mであった。御宿浦はこれら3村より被害が大きく、倒家30軒で63人もの死者を生じた(津波高9.7m)。現在はいすみ市に属する岩船も津波被害が大きく倒家40軒に対して死者57人を生じた(8.1m)。矢指戸(やさしど)は現在でも総戸数30戸ほどの小集落である。ここで、倒家25軒、溺死13人が記されている。ほぼ、集落全体の全戸消滅に近い(12.8m)。一宮町東浪見(とらみ)は、倒家50軒で97人もの死者を出した最大被災地の一つであるが、ここの現地文書には「潮は権現堂前まで」とあり、この地点の標高を測定して5.7mの浸水高を得た。銚子市の小畠池には外洋から津波によって海水が浸入したとされる。外洋と池を隔てる峠部の標高から13.5mを得た。この津波の特徴は、被害が房総半島からみて遠方にまで及んでいることである。福島県いわき市で4.8~6.9m、宮城県岩沼でも3.9~5.9mの浸水高さがあった。八丈島では島の南西海岸の八戸(やと、現在の八重根港の集落)で居住地の被害を生じており、筆者の一人である今井の現地調査により約10mに達したと推定される。津波は西方にも遠く伊勢湾の知多半島にまで及んでいる。すなわち南知多町内海では『柳営日次記』に「内海浦にて漁船廿四、五艘破船つかまつり」と記され、ここで2m程度の水位上昇があったと推定される。さらに知多半島先端の師崎(もろざき)でも、「九日夜尾州知多郡師崎浦江高潮十四五度差引有之」と記され、この「高潮」を天文潮位の満潮の潮位と理解して1.3m(TP)の津波であったと判断される。津波は紀伊半島の尾鷲に及んでいる(『見聞闕疑集』)。この文から尾鷲は居住地に浸水したと判断され、津波浸水標高は2mとする。本研究は、(独)原子力安全基盤機構からの委託業務「平成25年度津波痕跡データベースの高度化-確率論的津波ハザード評価に係る痕跡記録の調査および波源モデルのデータベース化」(代表:東北大学 今村文彦)の成果の一部として行われたものである。