日本地球惑星科学連合2018年大会

講演情報

[JJ] 口頭発表

セッション記号 M (領域外・複数領域) » M-ZZ その他

[M-ZZ40] 地球科学の科学史・科学哲学・科学技術社会論

2018年5月20日(日) 10:45 〜 12:15 202 (幕張メッセ国際会議場 2F)

コンビーナ:矢島 道子(日本大学文理学部)、青木 滋之(会津大学コンピュータ理工学部)、山田 俊弘(東京大学大学院教育学研究科研究員、共同)、吉田 茂生(九州大学大学院理学研究院地球惑星科学部門)、座長:矢島 道子山田 俊弘

11:45 〜 12:00

[MZZ40-05] 大学動物園化計画

*酒井 敏1 (1.京都大学人間・環境学研究科)

キーワード:大学改革、選択と集中、デフォルトモードネットワーク

若者に基礎知識を教えて大量に社会に送り出すことが、大学の役割であった時代は終わった。昔は大学が若者を送り出した後、個々の企業が研究所を構え、大学を卒業した若者を長い目で教育する体制があった。今、企業にそんな余裕はない。大学も変わらなければならない。これは現実だ。

そもそも、大学の役割には大きく分けて2つの役割がある。一つは過去の知識を次の世代に伝えること。もう一つは、今までになかった新しい知識を付け加えること。この二つは同じように見えて、必要な能力は全く異なる、というより真逆に近い。前者では、整備された高速道路を間違わずに目的地まで早くたどり着くことが要求されるので「記憶力」と「論理性」がものをいう。また指導者に対して従順であることも重要である。これに対して、後者では、まず「道を踏み外す」ことから始まる。様々なヒントをもとに道なき道を進み、万が一川に落ちても生還することが要求される。これには「発想力」と「強靭さ」が重要であると同時に「自主性」が極めて大きな意味を持つ。この2つは大学の中では教育と研究と言われることもあるが、これらは社会全般に適用できるもっと広い概念である。

当然、この二つでは頭の使い方も異なる。前者では脳の中で記憶と論理にかかわる部分が使われ、我々は意識を集中させることで、おそらくこの部分を活性化させることができる。ところが、後者ではおそらく脳のアイドリング状態のデフォルトモードネットワークが重要な意味をもつ。これは集中したときの脳の状態ではなく、「ぼーっと」している時の脳活動形態なので、「意識的に頑張る」ことで、後者を活性化させることは困難だ。

近年の大学改革では、よくアメリカが引き合いに出され、アメリカ的な考え方を持ち込むことが「改革」であるとされる。しかし、これは極めて危険である。そもそも日本とアメリカでは初等教育から大学の高等教育までのプロセスが違う。非常に単純化して言うと、アメリカでは初等教育でまず「自主性」を確立させ、その後に高等教育で人類の英知である「道具」の使い方を教える。日本は逆で、子供が従順なうちに「道具」の使い方を教え、高等教育で自主性を確立させる。もちろん、それぞれの段階でどちらか一方だけしかしないわけではなく比重の問題である。そして、最終的には両方とも必要なのである。アメリカの学生の場合には、大学入学時点で学生は道具に飢えているので、その使い方を積極的に学ぶ。日本の場合には道具の使い方はかなり知っているが、自主性に飢えている(いた)から、大学では遊んでいたのである。日本の初等教育はそのままで、大学教育だけアメリカ式にしてしまったら、自主性に乏しい人材を世に送り出すことになる。

1990年代のバブル崩壊後、日本は長いトンネルに入った。その中で大学は教養部を廃止し、2004年には法人化された。そして、この30年近くずっと声高に叫ばれていたスローガンが「選択と集中」である。しかし、この作戦は決して継続できるものではない。一旦、選択と集中をしてしまったら、次に選択すべき選択肢は残らない。選択と集中はイチかバチかの最後の手段である。そして、危機を脱したら、次にすべきことは「発散」である。ここで重要なのは大学の第二の役割である。新しいものを探しに行くためには、まず道を踏み外して発散しなければならない。そして、その際に重要な脳の使い方は「ぼーっとする」ことなのである。さらに、そこで必要な知識は緻密で精緻な理論ではない。雑多な知識とそれをつなぐ創造力である。今の日本の社会で足りないのは、今大学改革と称して大学に求められているのとは正反対のものなのだ。大学は企業とは真逆に変わらなければならない。

バブル崩壊から30年近くたち、民間企業のなかで「ぼーっとする」ことができる場所はほとんどなくなった。大学も独立行政法人化されて同様の道をたどっているとはいえ、まだ、相対的に残っている。今、大学がすべき改革は、企業の後を追うことではない。企業とは反対に第二の機能を強化し、発散の場を提供することである。これは若い学生に対してだけでなく、企業人、一般人に対してもぼーっとする場所を提供する必要がある。つまり、誰でも入れる動物園である。社会全体で、そのような場所を確保しておかなければ、社会の柔軟性はますます失われ、絶滅に向かうしかない。

理系の分野の中で地球科学は大学の第二の機能に大きく依存した分野である。どこかの地層に入った石から全球凍結を語ってしまう分野なのだ。まさに、今、日本社会の中で足りない能力を相当量保存しているはずである。今後の大学改革で、地球科学が果たすべき役割は非常に大きいと思う。