JpGU-AGU Joint Meeting 2020

講演情報

[J] 口頭発表

セッション記号 H (地球人間圏科学) » H-CG 地球人間圏科学複合領域・一般

[H-CG32] 原子力のリスクと地球科学:工学との対話

コンビーナ:寿楽 浩太(東京電機大学工学部人間科学系列)、金嶋 聰(九州大学大学院理学研究院地球惑星科学部門)、鷺谷 威(名古屋大学減災連携研究センター)、末次 大輔(海洋研究開発機構 海域地震火山部門 火山・地球内部研究センター)

[HCG32-04] 理学と工学の断絶を乗り越えるために

★招待講演

*滝 順一1 (1.日本経済新聞社)

キーワード:理学、工学、対話、原子力発電所

2013年以降、このセッションでは原子力発電所のリスクにどう向き合うかについて、オープンな議論の場を設けてきた。日本で多発する地震や津波、火山噴火に対する原発の安全性とリスクについて多角的な議論を行ってきた。その中で「理学と工学の違い」が繰り返し議論にのぼり、17年、18年には「理学・工学の両面から考える」と明確に副題を掲げて、原発の基準地震動、高レベル放射性廃棄物処分などに関し理学者と工学者が問題提起しディスカッションを重ねてきた。

しかし議論を経ても、理学と工学の間の対話は深まらず、むしろコミュニケーションのギャップが広がる傾向がみられた。科学者ではなく、科学を社会の視点から見てきた新聞社の一科学記者として、この議論に一石を投じたい。

何のために理学と工学のコミュニケーションが望まれるのだろうか。どちらか正しいのか、どちらに科学的、社会的な正当さがあるのか、その雌雄を決するのがコミュニケーションの目的ではない。理学と工学はよってたつ土台から異なるのだから、すれ違いは当然である。このことに関し、演者は2012年10月29日付けの日本経済新聞朝刊のコラム「核心」で「せめぎ合う理学と工学」と題して指摘した。

原発直下の活断層の評価をめぐり理学と工学からの見解が異なるであろうと推測し、「地震学などサイエンス(理学)の考え方は、自然が発するメッセージを厳密に読み取り人間社会の都合による妥協の余地がないものだ。エンジニアリング(工学)は直面する現実との折り合いの中で達成可能な解決法を見出そうとする性格がある」と指摘した。「工学と地球科学の断絶を日本が誠実に乗り越える」ことが原子力利用の継続には不可欠だと記事を結んだ。

このセッションが「対話」を目的とした試みであるなら、対話は「探索」であると強調したい。例えれば、探索とは自分がいま占めている場所を離れて新しい場所へ行くことである。私有地からわずかばかりの家財を抱えて旅立ち、どこかに誰かとの共有地を新たに見つける「旅」である。

言い換えれば、「対話」には自分が正しいと信じて疑わないことを捨てる覚悟が必要だ。正しいと考える自説を曲げる用意、相手の意見を受け入れる妥協と寛容の気持ちがなければ対話は成り立たない。自らが専門とする領域の知見を半ば捨てる覚悟が要る。専門性のタコツボに入ったまま、自らの主張の正しさをただ言い募るのでは理学と工学の対話は成立しない。結果として、理学とも工学ともほとんど無縁の政治や世論に判断を委ねることになる。それで科学者の社会的責任を果たせたと言えるのだろうか。

工学者はある技術が社会や人類に必要だと考える。自らの信念に加え、社会、あるいは政治から求められて、その技術の実現(社会実装)に力を尽くす。社会の課題解決が工学者の使命であろう。

しかし「対話」のためにその信念の正しさを疑ってもらいたい。本当に必要なのか。本当に社会はそれを求めているのか。それなしには社会は立ち行かないのか。強く信じてきた人ほど強く自らが信じてきたことを疑い、信念を一度解体する必要がある。

 理学者には自らの「科学的な真実」を曲げてでも妥協の余地はないのか考えてもらいたい。原子力利用に社会的な要請が本当にあるのかという疑問はひとまず置いて、強い要請があるとの前提を置いた上で理学は原子力の安全とリスクに関しどこまで目をつぶることができるのか、真剣に考えてほしい。容認できるリスクは何かである。

工学と理学の対話は生物学と物理学の学際協力や、機械工学と河川工学との共同研究とは次元が異なる。学問間の純粋な協同作業、知の交換にはとどまらない側面がある。両者が歩み寄りを志す対話には社会的な視点・視野が必ず介在し、科学や技術の社会的価値を問うものになるからだ。

学会は科学について論ずるだけの場所ではない。「社会の中の科学、社会のための科学」であるためには、それぞれの科学をいったん離れて議論をすることが「対話」の入り口であると考える。