日本地球惑星科学連合2023年大会

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[E] 口頭発表

セッション記号 A (大気水圏科学) » A-AS 大気科学・気象学・大気環境

[A-AS02] 気象の予測可能性から制御可能性へ

2023年5月22日(月) 15:30 〜 16:45 104 (幕張メッセ国際会議場)

コンビーナ:三好 建正(理化学研究所)、中澤 哲夫(東京大学大気海洋研究所)、Shu-Chih Yang(National Central University)、高玉 孝平(科学技術振興機構)、座長:三好 建正(理化学研究所)、Tetsuo Nakazawa(Meteorological Research Institute, Japan Meteorological Agency)

16:00 〜 16:15

[AAS02-08] なぜ日本と米国の気象調節研究は1971年に急速に衰退してしまったのか

*阿部 未来1筆保 弘徳1、笹岡 愛美1 (1.横浜国立大学)

キーワード:ELSI、気象制御

ムーンショット型研究開発事業目標8の下、台風を人工的に制御するための方策が検討されている。阿部ほか(2022年秋学会)では、台風制御に関する本格的な研究がすでに約60年前から米国のStormfury計画(1962-1983)において実施されたこと、当時の日本の状況について報告した。日本では、1965年に米国から台風制御実験の太平洋実施の提案を受けて以降、気象調節研究が本格化したが、1971年頃急速に衰退してしその原因はまだわかっていなかった。本研究では、文献調査やインタビュー調査を通じて、当時活発化していた研究がなぜ衰退してしまったのかその原因を考察するものである。
気象調節研究に関する文献は、国立国会図書館、国立公文書館、国会会議録検索システム、CiNii Researchを用いて収集した。また、当時の様子を知る方にインタビュー調査を行った。
Stormfury計画が進む中、日本でも国立防災科学技術センターを中心に気象調節研究が本格化していた。国立防災科学技術センターでは特別研究 (1965-1967, 1968-1972)が実施され、小型の消滅型ロケットの開発や屋外実験も行われた。1967年からは、国内の気象調節研究をする研究者が集まり研究成果を報告し意見交換をする場として気象調節研究委員会等が開かれるようになった。国会でもしばしば気象調節研究について話題にあがっていた(科学技術振興対策特別委員会 1970; 農林水産特別委員会 1971)。しかし、小沢他(1978)によると、「気象調節研究委員会は種々の事情があって第3回委員会(1970年6月12日開催)の後は開かれていない。その後2~3年間に情勢が大きく変り、現在はこれを審議していた頃と比べて気象調節研究に対する姿勢が著しく後退してしまった。」とある。このように、「種々の事情」とあるのみで、その原因について具体的に述べられている文献は見つからなかった。なお、日本における気象調節研究に関する出版物の数の年変化は、1966年より増加して一番多い年では12編に上るが、1971年をピークに減少している。
本研究では様々な調査から、1971年11月11日に起きた川崎ローム斜面崩壊実験事故の発生に着目した。国立防災科学技術センターが中心で行われた川崎ローム斜面崩壊実験は、斜面に散水ポンプで大量の雨を人工的に降らせ土砂災害を再現する実験であった。予想よりも大規模な斜面崩壊が起こったため、現場に立ち会っていた研究従事者・報道関係者ら15名が生き埋めにとなり死亡する大事故となった。事故翌日から衆参議院本会議や委員会で責任の所在等について激しく議論がされ、国立防災科学技術センターの寺田一彦所長も衆議院科学技術振興対策特別委員会に出席していた。寺田所長は当時の気象調節研究を牽引する立場であったが、事故からわずか7日後、責任をとって辞任することとなった。実験について11年間にわたり刑事裁判が行われ、その間実験データ等は押収され、使用することが禁止された。事故後、人間が自然に介入する種の研究やその実証実験は強く危険視されるようになった。 日本においてStormfury計画の影響を受けて気象調節研究が活発化したが、1971年頃急速に衰退してしまった。これは1971年の川崎ローム斜面崩壊実験事故が影響していると考えられる。事故翌日から国会でも激しく議論、世論の注目を集め報道される大事故であったこと、事故の責任をとって当時の気象調節研究を牽引する立場である寺田所長が辞任したこと、刑事裁判になり実験に関するデータを研究に使用することが禁止されたことなどから、気象調節研究は衰退せざるをえなかったと言える。
本研究は、JSTムーンショット(JPMJMS2282)の支援を受けた。