日本地球惑星科学連合2023年大会

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[J] 口頭発表

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[M-IS22] 歴史学×地球惑星科学

2023年5月21日(日) 09:00 〜 10:30 202 (幕張メッセ国際会議場)

コンビーナ:加納 靖之(東京大学地震研究所)、芳村 圭(東京大学生産技術研究所)、岩橋 清美(國學院大學)、玉澤 春史(京都市立芸術大学)、座長:加納 靖之(東京大学地震研究所)、玉澤 春史(京都市立芸術大学)

09:30 〜 10:00

[MIS22-03] 1783年8月5日のサトイモ ―天明三年浅間山噴火で埋没した畑跡の発掘調査―

★招待講演

*関 俊明1 (1.嬬恋郷土資料館)

キーワード:浅間火山天明噴火、発掘調査、里芋

新暦1783(天明三)年8月5日の浅間山(2,568m)噴火に伴う泥流に埋没した畑跡(中棚Ⅱ遺跡・現地標高547.8m)から、被災したサトイモの塊茎の石膏取りがなされたのは、群馬県北西部長野原町で、火口から北東直線距離で約20kmの地点である。
南方に起源をもつサトイモは通常標高600m付近までが栽培可能域とされている。盛夏の8月にどのような生育状態にあるかを検証すべく、標高1000・750・280mの3地点で、試験栽培を試みた。15品種群に分類されるサトイモの品種のうち、出荷5割を占めるといわれる「土垂」種を用いた。
結果、十分な生育温度が確保できない高冷地の気候では、種イモには子イモや孫イモの分化がなされていなかったという観察を得ることができた。つまり、型取りされた天明三年のサトイモが栽培限界地外の生育状況と同じであったことがわかり、「天明の飢饉」を招いたであろう生育不良となる気象状況等がすでに埋没時に記憶されていたことになる。遺跡の周辺では、埋没直前の10日間前後に降下した1~2cmの軽石が降下していたことを考慮しても、天明三年の浅間山噴火が「飢饉を誘発したような気象現象を招いた」のではなく、「すでに作柄不良を招くような気象状況だった」ことを記憶していたことになる。
また、「飢饉」とは社会現象からみる「人災」である側面を忘れてはならないが、かつて、歴史研究の分野では、天明三年の浅間山噴火が天明の飢饉を招いたとか、3年後の田沼意次の失脚、6年後のフランス革命を招いたという端的な言われ方をされる原因となる世界規模の議論も試みられたようである(昭和54年7月「気候と歴史に関する国際会議」・英、鵜川馨氏(立教大学)報告)が、火山噴火とその影響については、冷静な視座をもつことが必要であるだろう。
浅間山1783噴火は、5月8日に始まるほぼ3か月の噴火活動とされるが、同期、アイスランドのラキ山が、6月8日に水蒸気爆発を起こし、130もの火口を生じさせた。噴火は、プリニー式、ストロンボリ式、そして溶岩流を主体とするハワイ式噴火へと次第に様相を変えていったとされている。溶岩噴出は5か月で収まったが、噴火自体は翌年2月7日まで続いたという。この噴火規模との比較は、マグマ噴出量(kg)で、ラキ(Lskagigar)3.4×1013/浅間山4×1011である(『理科年表』)。
ヨーロッパの「ラキのもや」は、北半球全体の気温を下げ、イギリスでも降下物があり、1783年の夏は「砂の夏」(sand-summer)と呼ばれる。
浅間山1783噴火の北麓側の降下物に関して、7月17日と27~29日降下が想定でき、このうち7月27~29日の軽石降下がこの遺跡に及んでいたことが検証されている。この軽石が、夏の農事「土用の培土」と絡み、畑跡の人為的な耕作痕として9種類以上の耕作断面を読み取ることができる。8月5日の埋没までに噴火被害による耕作状況の寸断があったことが読み取れ、その耕作状況を発掘調査された1.7万㎡の畑の面積比から割り出すと、最大で53%、最小で30%の畑で「耕作が続けられていない」という結果になる。
また、遺跡近隣の文書記録「年貢割付」の破免状(長野原町横壁区有文書)で、「青立皆無引」(生育不良で年貢がすべて免除)の割合が35%、また、「粟と大豆が皆損、蕎麦は八分損、稗と麻は七分損(大柏木村)」の記録もある。
ギルバート・ホワイト(英・1720-93)は、『セルボーンの博物誌』の中で、イギリス南部セルボーンでの「小石の降下」、「空気が入れ替わらない風」、「まだら模様の太陽」、「日の出入時の真赤な空」、「錆びた土のような太陽の色」といった6月23日~7月20日までの異様な風景の観察記録を書き残している。「光と色彩」の風景画家ターナー(英・1775-1851)の「ヨーロッパの空」を連想させる。
また、雷が電気であったことを明らかにしたベンジャミン・フランクリン(米・1706-90)は気象学者でもあり、「1783年の夏から数か月にわたって、ヨーロッパや北アメリカの大部分は、ずっと一種の霧でおおわれていた。しかもこの霧は乾燥していて、太陽の輝きもこれを消散らすることができなった。」と、ヨーロッパや北アメリカでこの後3~4年の間、夏の低温が続いたことを手記に残している。
「時の断面」を記憶・再現したサトイモ型の観察は、これら欧米で書き残された記録と土俵を同じくして、議論すべきと考えられる。