16:30 〜 16:45
[MIS17-08] ハンセン病療養所・長島愛生園における気象・天文観測
キーワード:気象観測、天文観測、ハンセン病、市民科学
本発表では、ハンセン病療養所である長島愛生園における気象および天文観測の記録を紹介する。ハンセン病はかつて「らい病」とも呼ばれた慢性の感染症である1950年代に有効な治療薬が普及するまでは不治の病と考えられていたこと、進行すると四肢の変形や容貌の変化を伴うこと、遺伝病であるという誤解があったことなどから、患者とその家族は激しい差別にさらされてきた。 日本では戦前から隔離政策が取られ、患者は各地に作られた療養所に半ば強制的に収容された。差別的な隔離政策は治療法が確立されてからも続き、その法的根拠であった「らい予防法」が廃止されたのは1996年のことである。病が治癒した後も後遺症や様々な社会的要因から療養所を出て社会復帰することがかなわなかった入所者は少なくなく、各地のハンセン病療養所 には今もハンセン病からの回復者の方々が居住している。
国立療養所長島愛生園は、岡山県東部の長島にあるハンセン病療養所である。他園で類似の例があったことは知られていないが、同園には気象観測所と天文台が設置され、ハンセン病患者である入所者たちが観測を行っていた。気象観測所は1935年に設立され、直後から岡山測候所(大阪管区)の区内観測所として公的な気象観測を担っており、それはアメダスが設置された1976年頃まで続いていた。ハンセン病療養所には入所者が低賃金で所内の様々な作業を担ういわゆる「患者作業」というものがあり、気象観測所もその一つであった。ただし気象観測および天文観測に携わっていた入所者たちの多くは、単に割り当てられた仕事として行っていたのではなく、その仕事に積極的な動機と誇りをもって当たっていたようである。アメダス設置後も、最後の観測所主任であった森田峯夫氏により2011年まで観測は続けられた。1935年から2011年までの観測の記録は丁寧に整理されて園内に保管されていることが数年前に発表者らの調査で明らかになり、現在その記録のデジタルアーカイブ化を進めている。
長島愛生園の天文台は気象観測所の一部として1949年に設立され、1960年代まで観測を行っていた記録がある。同天文台には英国の名匠ジョージ・カルヴァーが製作した鏡を用いた5インチの反射望遠鏡が設置され、太陽黒点などの観測を行っていた。同天文台に望遠鏡を寄贈したのは京都帝国大学花山天文台の初代台長で、アマチュア天文家の育成にも尽力した山本一清である。山本の残した資料からは、天文観測にかける熱い想いを記した愛生園の気象観測所員から手紙が発見されている。手紙を出したのは2代目の長島気象観測所主任だった横内武男である。横内は対外的に発表する文章や手紙などには園名である依田照彦を使っていたが、気象観測と天文観測にかかわる公的な記録にはいつも本名である横内武男を使っていたことがわかっている。
本発表では長島愛生園の気象・天文観測の記録のについて、現代の科学にとってどのような価値があるかに加え、市民科学の歴史とハンセン病の歴史という観点からも考察する。
国立療養所長島愛生園は、岡山県東部の長島にあるハンセン病療養所である。他園で類似の例があったことは知られていないが、同園には気象観測所と天文台が設置され、ハンセン病患者である入所者たちが観測を行っていた。気象観測所は1935年に設立され、直後から岡山測候所(大阪管区)の区内観測所として公的な気象観測を担っており、それはアメダスが設置された1976年頃まで続いていた。ハンセン病療養所には入所者が低賃金で所内の様々な作業を担ういわゆる「患者作業」というものがあり、気象観測所もその一つであった。ただし気象観測および天文観測に携わっていた入所者たちの多くは、単に割り当てられた仕事として行っていたのではなく、その仕事に積極的な動機と誇りをもって当たっていたようである。アメダス設置後も、最後の観測所主任であった森田峯夫氏により2011年まで観測は続けられた。1935年から2011年までの観測の記録は丁寧に整理されて園内に保管されていることが数年前に発表者らの調査で明らかになり、現在その記録のデジタルアーカイブ化を進めている。
長島愛生園の天文台は気象観測所の一部として1949年に設立され、1960年代まで観測を行っていた記録がある。同天文台には英国の名匠ジョージ・カルヴァーが製作した鏡を用いた5インチの反射望遠鏡が設置され、太陽黒点などの観測を行っていた。同天文台に望遠鏡を寄贈したのは京都帝国大学花山天文台の初代台長で、アマチュア天文家の育成にも尽力した山本一清である。山本の残した資料からは、天文観測にかける熱い想いを記した愛生園の気象観測所員から手紙が発見されている。手紙を出したのは2代目の長島気象観測所主任だった横内武男である。横内は対外的に発表する文章や手紙などには園名である依田照彦を使っていたが、気象観測と天文観測にかかわる公的な記録にはいつも本名である横内武男を使っていたことがわかっている。
本発表では長島愛生園の気象・天文観測の記録のについて、現代の科学にとってどのような価値があるかに加え、市民科学の歴史とハンセン病の歴史という観点からも考察する。