17:15 〜 18:45
[MZZ41-P01] ドイツ・ハルツ鉱山におけるG.ライプニッツと日本人ペーター・ハルツィング
キーワード:ハルツ鉱山、17世紀、水車、風車
徳川家光(慶長 9 年(1604 年)- 慶安 4 年(1651 年))は、寛永 18 年(1641 年)に日本おける交易港を長崎の出島商館に制限し、これまで開かれていた平戸商館(現在の長崎県平戸市)が閉鎖した。それに伴い、この商館で従事していた商館員の一部は長崎など別の東インド会社の商館に配置換えを受ける者や祖国に戻った者もいた。後者の一人に、カレル・ハルツィング(Carel Hartzing. 1611-1667)がいた。彼は平戸で結婚した現地妻(名前不詳 ? - 1641)と幼い兄弟 2 人を連れて、1641 年 11 月に日本を離れ、故郷ドイツに帰国した。このプレゼンテーションで取り上げるペーター・ハルツィング(Peter Hartzing. 1637-1680)は、カレルの長男である。 その後ペーターは父の故郷ドイツで初等教育を受け、ドイツ、オランダの大学で数学、形而上学、医学等を学んだ。1667 年、30 歳の時にブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領(Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg)に鉱山技師として着任し、その後はクラウスタール地方の鉱山開発の最高責任者として活躍した。特に彼は鉱山発掘中に常に坑道に浸透してくる地下水問題に取り組んだ。彼は浸透水を風車と水車を用いて地上に戻す事業の責任者として奔走した。
筆者は、クラウスタール鉱山公文書館で 17 世紀の鉱山関係文書を調査した際、ハルツィングが地元の鉱山当局に提出した水車と風車に関する複数の公文書を見つけることができ
た。この計画書はクラウスタール地方の当時の鉱山廃水事業の歴史を知ることができる史料である。この講演では複数の史料の中から、ハルツィングが 1670 年 9 月に作成した風車設置計画書の概要を中心に紹介する。徳川家光(慶長 9 年(1604 年)- 慶安 4 年(1651 年))は、寛永 18 年(1641 年)に日本おける交易港を長崎の出島商館に制限し、これまで開かれていた平戸商館(現在の長崎県平戸市)が閉鎖した。それに伴い、この商館で従事していた商館員の一部は長崎など別の東インド会社の商館に配置換えを受ける者や祖国に戻った者もいた。後者の一人に、カレル・ハルツィング(Carel Hartzing. 1611-1667)がいた。彼は平戸で結婚した現地妻(名前不詳 ? - 1641)と幼い兄弟 2 人を連れて、1641 年 11 月に日本を離れ、故郷ドイツに帰国した。このプレゼンテーションで取り上げるペーター・ハルツィング(Peter Hartzing. 1637-1680)は、カレルの長男である。 その後ペーターは父の故郷ドイツで初等教育を受け、ドイツ、オランダの大学で数学、形而上学、医学等を学んだ。1667 年、30 歳の時にブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領(Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg)に鉱山技師として着任し、その後はクラウスタール地方の鉱山開発の最高責任者として活躍した。特に彼は鉱山発掘中に常に坑道に浸透してくる地下水問題に取り組んだ。彼は浸透水を風車と水車を用いて地上に戻す事業の責任者として奔走した。
筆者は、クラウスタール鉱山公文書館で 17 世紀の鉱山関係文書を調査した際、ハルツィングが地元の鉱山当局に提出した水車と風車に関する複数の公文書を見つけることができ
た。この計画書はクラウスタール地方の当時の鉱山廃水事業の歴史を知ることができる史料である。この講演では複数の史料の中から、ハルツィングが 1670 年 9 月に作成した風車設置計画書の概要を中心に紹介する。
筆者は、クラウスタール鉱山公文書館で 17 世紀の鉱山関係文書を調査した際、ハルツィングが地元の鉱山当局に提出した水車と風車に関する複数の公文書を見つけることができ
た。この計画書はクラウスタール地方の当時の鉱山廃水事業の歴史を知ることができる史料である。この講演では複数の史料の中から、ハルツィングが 1670 年 9 月に作成した風車設置計画書の概要を中心に紹介する。徳川家光(慶長 9 年(1604 年)- 慶安 4 年(1651 年))は、寛永 18 年(1641 年)に日本おける交易港を長崎の出島商館に制限し、これまで開かれていた平戸商館(現在の長崎県平戸市)が閉鎖した。それに伴い、この商館で従事していた商館員の一部は長崎など別の東インド会社の商館に配置換えを受ける者や祖国に戻った者もいた。後者の一人に、カレル・ハルツィング(Carel Hartzing. 1611-1667)がいた。彼は平戸で結婚した現地妻(名前不詳 ? - 1641)と幼い兄弟 2 人を連れて、1641 年 11 月に日本を離れ、故郷ドイツに帰国した。このプレゼンテーションで取り上げるペーター・ハルツィング(Peter Hartzing. 1637-1680)は、カレルの長男である。 その後ペーターは父の故郷ドイツで初等教育を受け、ドイツ、オランダの大学で数学、形而上学、医学等を学んだ。1667 年、30 歳の時にブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領(Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg)に鉱山技師として着任し、その後はクラウスタール地方の鉱山開発の最高責任者として活躍した。特に彼は鉱山発掘中に常に坑道に浸透してくる地下水問題に取り組んだ。彼は浸透水を風車と水車を用いて地上に戻す事業の責任者として奔走した。
筆者は、クラウスタール鉱山公文書館で 17 世紀の鉱山関係文書を調査した際、ハルツィングが地元の鉱山当局に提出した水車と風車に関する複数の公文書を見つけることができ
た。この計画書はクラウスタール地方の当時の鉱山廃水事業の歴史を知ることができる史料である。この講演では複数の史料の中から、ハルツィングが 1670 年 9 月に作成した風車設置計画書の概要を中心に紹介する。