日本地球惑星科学連合2024年大会

講演情報

[J] 口頭発表

セッション記号 M (領域外・複数領域) » M-ZZ その他

[M-ZZ44] 地質と文化

2024年5月26日(日) 13:45 〜 15:00 展示場特設会場 (1) (幕張メッセ国際展示場 6ホール)

コンビーナ:先山 徹(NPO法人地球年代学ネットワーク 地球史研究所)、川村 教一(兵庫県立大学大学院 地域資源マネジメント研究科)、鈴木 寿志(大谷大学)、座長:先山 徹(NPO法人地球年代学ネットワーク 地球史研究所)、川村 教一(兵庫県立大学大学院 地域資源マネジメント研究科)、鈴木 寿志(大谷大学)

14:15 〜 14:30

[MZZ44-03] 茨城県稲田地域の石材用軽便軌道跡

*乾 睦子1 (1.国士舘大学理工学部)

キーワード:石材、花崗岩、稲田石、採石場、トロッコ

明治時代後半以降の首都圏の都市形成においては国内で採掘された花崗岩が大きな役割を果たした。しかし、現在では国産建築用石材はほとんど流通しなくなっており、かつて多くの国産石材が採掘されていたことも忘れられつつある。日本の近代化に貢献した国産石材産業の歴史を記録しておくことは大変重要である。本稿では、首都圏で最も多く使われた花崗岩石材のひとつである稲田石の産地について、特に軽便軌道(トロッコ軌道)跡の調査をしたので報告する。
 稲田地域の花崗岩採掘の歴史はそれほど古くなく、1889(明治22)年の水戸鉄道開通、1897(明治30)年の稲田駅開業から本格的に出荷されるようになった産地である。しかし、立地の有利さもあり、東京都電の敷石敷設、関東大震災後の復興などに多くの石材を供給したことで知られるようになった。稲田地域の石材搬出において重要な役割を果たしたのが軽便軌道である。採石場から稲田駅に向かってゆるやかに下る地形となっているため、その傾斜を利用した軽便軌道によって搬出量を飛躍的に伸ばすことができたと言われている。小林(1985)によると主な軽便軌道として鍋島線・高田線、中野線、土屋線、大郷戸線と呼ばれる軌道があり(鍋島、高田、中野、土屋は事業者の名前、大郷戸は地区名)、1896(明治29)年から1965(昭和40)年頃まで使用されていたという。しかし小林(1985)は軌道の位置を曖昧にしか示しておらず、他資料による時期の裏付けもなかった。そこで2つの資料から新たに軽便軌道の推定を試みた。ひとつは笠間市立石の百年館が保管する「鍋嶋彦七郎所有山地図」である。発行年不明であるが鍋島彦七郎の名前により1896(明治29)年から1914(大正3)年までの間と推測でき、この図の地番から軌道の位置を推定することができた。もうひとつは国土地理院発行旧版地形図であり、2万5千分の1「羽黒」および5万分の1「真岡」の旧版地形図から軽便軌道の位置と年代を推定した。
 この作業の結果、鍋島線・高田線、中野線、土屋線、大郷戸線と思われる軌道の位置をある程度推定することができた。最も古い鍋島線は国土地理院地形図には描かれておらず、地形図に描かれる後の鍋島・高田線とも軌道の位置が異なっていたが、当初の鍋島線は木製レールだったという記述があり地形図の「特殊鐡道」ではなかった可能性がある。
 推定した軌道位置には軌道跡様の構造物がいくつか見られた。その一部については石材業関係者から軌道跡に関する証言も得られた。軌道が稲田川を渡っていた痕跡や、農地の中や周辺に残る不似合いに頑丈な石積み等がおそらく軽便軌道の遺構と思われた。
 首都圏の都市形成に大きく貢献した稲田石産地の競争力を高めたと言われる軽便軌道は、当時の稲田石の生産・出荷体制を考える時に大変重要であり、これを知ることによって稲田石を使用した都市形成や近代建築物の建設プロセスの一端が明らかになると考えている。
〈参考文献〉小林三郎 (1985) 「稲田御影石材史」稲田石材商工業協同組合