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[SCG45-03] スペクトルの位置・幅・強度・面積の測定精度を向上させる方法:Cramér–Rao lower boundの導出とMonte Carlo simulationによるベンチマーキング
キーワード:クラメール・ラオの限界、フィッシャー情報量、ICP-MS、クロマトグラフィー、ラマン分光法
はじめに
スペクトルから抽出されるピーク位置(ωc),バンド幅(Γ),強度(I),エリア(A),波数差(Δω),強度比 (RI),エリア比(RA)などのスペクトル特性は,様々な化学分析 (e.g., Raman, Brillouin, XRD, FTIR, NMR, EDS, ICP-MS, chromatography) において,物質の物理化学的性質の指標として利用されてきた.あらゆる分析において,究極の推定精度を達成することは重要な目標であるが,スペクトル特性の推定精度に関して以下のような基本的な疑問が解明されていない.
1) 光検出器に到達する光子数の統計的なゆらぎに起因するノイズが支配的な場合(つまり,ショットノイズ限界),スペクトル特性の推定精度は解析的にどのように表されるのか?
2) エリア比と強度比(または,エリアと強度)は物質の濃度の指標としてよく利用されるが,どちらの方が精度の良い推定量か?
3) ショットノイズ限界において,隣接する複数のピクセルを一つの大きなピクセルとして扱うピクセルビニングによりスペクトル特性の推定精度はどの程度向上するのか?
4) 分析装置 (例えば,検出器や分光器)の性能をアップグレードするとスペクトル特性の推定精度はどの程度向上するのか?
そこで我々は,これらの疑問を解決するため理論的調査とMonte Carlo simulationを行った.
手法
ガウスプロファイルを持つスペクトルについて,Cramér–Rao lower boundとFisher informationの枠組みに基づき,ショットノイズ限界におけるスペクトル特性の推定精度の下限について解析解を導出した.先行研究ではホワイトノイズ限界(つまり,ノイズは周波数に依存しない)による解析解しか得られておらず(Minin and Kamalabadi, 2009),強度–バンド幅間の共分散を考慮する必要のある面積についても解析解は得られていない(Hagiwara et al., 2023).Monte Carlo simulationでは十分離れた2つのgaussianプロファイルを持つスペクトルを様々な条件で合計8100個生成し,Levenberg-Marquardtアルゴリズムに基づくpython非線形フィットルーチン (scipy.optimize.curve_fit)によりスペクトル特性を抽出した.最後に,理論で得られたスペクトル特性の推定精度とシミュレーションのそれを比較した.
結果
上記の1)–4)の問題に取り組み,それぞれ以下の結果が得られた.
1) 得られた解析解はMonte Carlo simulationの結果と調和的であった.直観通り,全ての推定量の相対標準偏差は「強度の平方根の逆数(1/I)1/2」に比例する.バンド幅,強度,エリアやそれらの比の相対標準偏差は,全て{Δx/Γ}1/2に比例する(Δxはスペクトルを構成するデータ点の間隔).一方,ピーク位置と波数差の相対標準偏差はどちらも{Γ×Δx}1/2に比例する.従って,Δx/I = const.の条件では,強度とバンド幅は幅広いピークほど精度よく推定でき,一方ピーク位置は細いピークほど精度よく推定できる.
2) 強度比とエリア比はどちらが高精度かという問いは分析化学の様々な分野で議論されてきたが(e.g., Kipiniak, 1981),両者の精度を調査した実験によると,強度比(or 強度)の方が高精度である場合や(e.g., Dyson, 1999),エリア比 (or エリア)の方が精度が高い場合(e.g., Pauls et al., 1986),更には両者の精度に違いは無いという結果もある(e.g., Park et al., 1987).我々は,エリア比 (or エリア)の推定精度は強度比(or 強度)の推定精度よりも√2倍良いことを解析的に示した (下図参照).エリア比(or エリア)の方が高精度である原因は,強度とバンド幅の間に負の共分散が存在するためである.その結果,直感に反し,強度やバンド幅に関連する先験的情報はエリア比(or エリア)の精度を向上させず,むしろ悪化させる.
3) フォトダイオードで検出された光がアナログ・デジタル・コンバータで出力される間に発生するノイズが支配的なノイズの場合(つまり,リードアウトノイズ限界),エリア検出器においてビニングを施すことでS/N比の向上が期待される(Epperson and Denton, 1989).しかし,ショットノイズ限界にでは,ピクセルビニングを施しても全てのスペクトル特性の推定精度は向上も悪化もしないことが示された.
4) 得られたCramér–Rao lower boundを分光学的知見と統合することで,「スペクトル特性の推定精度」と「装置性能」を結びつける理論的基盤を確立した.この理論的枠組みを使えば,特定の分析装置で達成可能な精度の限界や,装置のアップグレードによる精度向上の程度を定量的に評価できる.我々はこのプラットフォームを使って,装置性能(分光器の焦点距離,回折格子定数,検出器のピクセルサイズ,スリット幅)をアップグレードすることでラマン分光法を用いたCO2のδ13C測定精度がどの程度向上するかを数値計算した.
参考文献
Dyson (1999) J. Chromatogr. A 842, 321–340; Epperson and Denton (1989) Anal. Chem. 61, 1513–1519; Hagiwara et al. (2023) J. Raman Spectrosc. 54, 1440–1464.; Kipiniak (1981) Journal of Chromatographic Science 19, 332–337; Minin and Kamalabadi (2009) Appl. Opt. 48, 6913–6922; Park et al. (1987) Microchem. J. 35, 232–239; Pauls et al. (1986) J. Chromatogr. Sci. 24, 273–277.
スペクトルから抽出されるピーク位置(ωc),バンド幅(Γ),強度(I),エリア(A),波数差(Δω),強度比 (RI),エリア比(RA)などのスペクトル特性は,様々な化学分析 (e.g., Raman, Brillouin, XRD, FTIR, NMR, EDS, ICP-MS, chromatography) において,物質の物理化学的性質の指標として利用されてきた.あらゆる分析において,究極の推定精度を達成することは重要な目標であるが,スペクトル特性の推定精度に関して以下のような基本的な疑問が解明されていない.
1) 光検出器に到達する光子数の統計的なゆらぎに起因するノイズが支配的な場合(つまり,ショットノイズ限界),スペクトル特性の推定精度は解析的にどのように表されるのか?
2) エリア比と強度比(または,エリアと強度)は物質の濃度の指標としてよく利用されるが,どちらの方が精度の良い推定量か?
3) ショットノイズ限界において,隣接する複数のピクセルを一つの大きなピクセルとして扱うピクセルビニングによりスペクトル特性の推定精度はどの程度向上するのか?
4) 分析装置 (例えば,検出器や分光器)の性能をアップグレードするとスペクトル特性の推定精度はどの程度向上するのか?
そこで我々は,これらの疑問を解決するため理論的調査とMonte Carlo simulationを行った.
手法
ガウスプロファイルを持つスペクトルについて,Cramér–Rao lower boundとFisher informationの枠組みに基づき,ショットノイズ限界におけるスペクトル特性の推定精度の下限について解析解を導出した.先行研究ではホワイトノイズ限界(つまり,ノイズは周波数に依存しない)による解析解しか得られておらず(Minin and Kamalabadi, 2009),強度–バンド幅間の共分散を考慮する必要のある面積についても解析解は得られていない(Hagiwara et al., 2023).Monte Carlo simulationでは十分離れた2つのgaussianプロファイルを持つスペクトルを様々な条件で合計8100個生成し,Levenberg-Marquardtアルゴリズムに基づくpython非線形フィットルーチン (scipy.optimize.curve_fit)によりスペクトル特性を抽出した.最後に,理論で得られたスペクトル特性の推定精度とシミュレーションのそれを比較した.
結果
上記の1)–4)の問題に取り組み,それぞれ以下の結果が得られた.
1) 得られた解析解はMonte Carlo simulationの結果と調和的であった.直観通り,全ての推定量の相対標準偏差は「強度の平方根の逆数(1/I)1/2」に比例する.バンド幅,強度,エリアやそれらの比の相対標準偏差は,全て{Δx/Γ}1/2に比例する(Δxはスペクトルを構成するデータ点の間隔).一方,ピーク位置と波数差の相対標準偏差はどちらも{Γ×Δx}1/2に比例する.従って,Δx/I = const.の条件では,強度とバンド幅は幅広いピークほど精度よく推定でき,一方ピーク位置は細いピークほど精度よく推定できる.
2) 強度比とエリア比はどちらが高精度かという問いは分析化学の様々な分野で議論されてきたが(e.g., Kipiniak, 1981),両者の精度を調査した実験によると,強度比(or 強度)の方が高精度である場合や(e.g., Dyson, 1999),エリア比 (or エリア)の方が精度が高い場合(e.g., Pauls et al., 1986),更には両者の精度に違いは無いという結果もある(e.g., Park et al., 1987).我々は,エリア比 (or エリア)の推定精度は強度比(or 強度)の推定精度よりも√2倍良いことを解析的に示した (下図参照).エリア比(or エリア)の方が高精度である原因は,強度とバンド幅の間に負の共分散が存在するためである.その結果,直感に反し,強度やバンド幅に関連する先験的情報はエリア比(or エリア)の精度を向上させず,むしろ悪化させる.
3) フォトダイオードで検出された光がアナログ・デジタル・コンバータで出力される間に発生するノイズが支配的なノイズの場合(つまり,リードアウトノイズ限界),エリア検出器においてビニングを施すことでS/N比の向上が期待される(Epperson and Denton, 1989).しかし,ショットノイズ限界にでは,ピクセルビニングを施しても全てのスペクトル特性の推定精度は向上も悪化もしないことが示された.
4) 得られたCramér–Rao lower boundを分光学的知見と統合することで,「スペクトル特性の推定精度」と「装置性能」を結びつける理論的基盤を確立した.この理論的枠組みを使えば,特定の分析装置で達成可能な精度の限界や,装置のアップグレードによる精度向上の程度を定量的に評価できる.我々はこのプラットフォームを使って,装置性能(分光器の焦点距離,回折格子定数,検出器のピクセルサイズ,スリット幅)をアップグレードすることでラマン分光法を用いたCO2のδ13C測定精度がどの程度向上するかを数値計算した.
参考文献
Dyson (1999) J. Chromatogr. A 842, 321–340; Epperson and Denton (1989) Anal. Chem. 61, 1513–1519; Hagiwara et al. (2023) J. Raman Spectrosc. 54, 1440–1464.; Kipiniak (1981) Journal of Chromatographic Science 19, 332–337; Minin and Kamalabadi (2009) Appl. Opt. 48, 6913–6922; Park et al. (1987) Microchem. J. 35, 232–239; Pauls et al. (1986) J. Chromatogr. Sci. 24, 273–277.