The 71st Conference of the Japan Society of Physical Education, Health and Sports Sciences

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Oral (Theme)

スポーツ文化研究部会 » 【課題C】多様なスポーツ文化の保存・流通・促進をいかに刷新していくか

スポーツ文化研究部会【課題C】口頭発表②

Wed. Sep 8, 2021 1:45 PM - 3:15 PM Room 8 (Zoom)

Chair: Hiroshi Kubota (Tokyo Gakugei University)

2:00 PM - 2:20 PM

[スポーツ文化-C-08] 国際ストーク・マンデビル競技大会の表記に関する研究

1964年東京大会までの新聞記事に着目して

*Takashi Abe1, Yukinori Sawae2 (1. Tokyo Kasei University, 2. University of Tsukuba)

【目的】パラリンピックの源流とされる国際ストーク・マンデビル競技大会の新聞記事における大会名称の変遷とその特徴を明らかにすることを目的とした。

【方法】本大会の表記について新聞記事より分析を行う。分析対象は発行部数、購読者数が上位3社の朝日新聞、読売新聞、毎日新聞の3紙の朝刊、夕刊とした。大会名の表記は「身障者五輪」、「国際ストーク・マンデビル競技大会」、「パラリンピック」、「国際身体障害者スポーツ大会」の4つに分類し、出版年ごとに分析を行う。対象期間は東京大会が開催された1964年までとした。

【結果】新聞に掲載された本大会に関する記事数は1954年が1件、1959年が2件、1961年が2件、1962年が24件、1963年が37件、1964年が161件と徐々に増加したことが明らかとなった。1954年、1959年の記事はそれぞれ「身障者五輪」として表記され、1961年の2件は1960年の本大会(ローマ)を観戦した渡辺華子の手記とそれに関する記事で、「パラリンピック」と表記されていた。1962年は「身障者五輪」の表記が最も多く、1963年は「身障者五輪」、次いで「国際ストーク・マンデビル競技大会」が多く、1964年は「パラリンピック」、次いで「国際身体障害者スポーツ大会」が最も多かった。

【考察】本大会は1961年に「パラリンピック」として紹介されたものの、1964年まであまり使用されなかった。その一方で、2名の選手が日本代表として初めて出場した1962年より記事掲載数が増加し、読者にイメージしやすい「身障者五輪」が使用されたと思われる。さらに、1964年の東京大会が「身障者五輪」や「国際身体障害者スポーツ大会」よりも「パラリンピック」として最も多く表記されたのは、身体障害者の処遇改善を目指していた当時の時代背景から、よりクリーンなイメージとして使用されたものと考えられた。