9:00 AM - 9:15 AM
[学校保健体育-B-01] 体育授業において痛みを経験することの意味に関する検討(哲)
本発表の目的は、体育授業における痛みの経験の意味を検討することである。この検討の背景には、現代社会を生きるわれわれの、痛みに対する態度がある。今日われわれは様々な状況において、痛みを発生させる原因を排除することによって、痛みを経験する機会を取り除いている。この傾向は、体育授業においても見受けられる。例えばドッジボールをする際、弾力性のあるボールを使用するといった対策が講じられている。それが「誰によるものか」を具体的に示すことは容易ではないと考えられる。なぜならそれは、学校体育に関係する多くの人間の無自覚な欲望が複雑に絡み合った結果、生じるものだと考えられる。
もちろん、不快を回避しようとすることは人間の自然な態度であるといえる。そのため、そのこと自体に問題の所在を求めることはできないだろう。しかし、この傾向をわれわれが無批判に許容し続けるならば、体育授業において痛みを経験する機会がますます失われていくことになりかねない。今日の体育授業において失われつつあるこの痛みの経験は、児童・生徒に意味のある事柄を提供してきたことが考えられるのではないだろうか。
本発表では、その意味を検討するために、哲学、特に現象学において論じられてきた身体論を参照したい。なぜなら、自らの身体と、そこにおいて生じる痛みを生きたものとして捉えることによってこそ、その意味を検討することができるからである。これを視点として、体育授業における痛みの経験が、児童・生徒の自己の安定や、さらには他者とのかかわりを可能にすることを論じていく。以上の検討から、体育授業において痛みを回避しながらも、われわれはその態度に批判的なまなざしを向ける必要があることが示されるだろう。
もちろん、不快を回避しようとすることは人間の自然な態度であるといえる。そのため、そのこと自体に問題の所在を求めることはできないだろう。しかし、この傾向をわれわれが無批判に許容し続けるならば、体育授業において痛みを経験する機会がますます失われていくことになりかねない。今日の体育授業において失われつつあるこの痛みの経験は、児童・生徒に意味のある事柄を提供してきたことが考えられるのではないだろうか。
本発表では、その意味を検討するために、哲学、特に現象学において論じられてきた身体論を参照したい。なぜなら、自らの身体と、そこにおいて生じる痛みを生きたものとして捉えることによってこそ、その意味を検討することができるからである。これを視点として、体育授業における痛みの経験が、児童・生徒の自己の安定や、さらには他者とのかかわりを可能にすることを論じていく。以上の検討から、体育授業において痛みを回避しながらも、われわれはその態度に批判的なまなざしを向ける必要があることが示されるだろう。