日本地震学会2019年度秋季大会

講演情報

ポスター会場(1日目)

一般セッション » S18. 地震教育・地震学史

S18P

2019年9月16日(月) 17:15 〜 18:45 P会場 (時計台国際交流ホールII・III)

17:15 〜 18:45

[S18P-02] 東南海地震と当時の地震学

*武村 雅之1 (1. 名古屋大学減災連携研究センター)

1944年12月7日に発生した東南海地震は戦時中の厳しい統制の中で調査研究を充分行うことができなかった。そんな印象を持っている人が多い。「隠された災害」などというイメージがさらに拍車をかけているようである。実態はどうだったのだろうか?

まずは、当時の日本の地震学の実力を見てみよう。大正12年の関東大震災後、日本の地震学は大きな転換を遂げる。統計や計測を中心とした従来の地震学から、地震を地球物理学的現象として学理的に取り扱おうとする地震学への転換である。その立役者は、大正14年に新しく設立された地震研究所と岡田武松台長の元に力を付けた中央気象台の台頭である。両者の共通点は予知だの防災だのという前に、地震の本性を知るための基礎的研究に邁進したことである。特に中央気象台は、全国の測候所に標準地震計としてウィーへルト式地震計を配し、中野、本多、和達らが、今日の震源断層理論やプレートテクトニクス理論に迫る発見を次々にし、地震研究所とともに世界の地震学をけん引した。

昭和10年代になると、次第に戦争の影響が現れる。主なものは、昭和12年ころに陸軍から文部省に対して、全国の気象台等気象機関の一元統制の要請がなされ、測候所がそれまでの県営他から国有化される。さらに中央気象台を陸軍に編入する要求もあったが、岡田やその後継の藤原はこれを拒否した。このことは終戦にあたり観測器機や記録紙などのデータが廃棄されることを防いだ他に、昭和16年の太平洋戦争開戦と同時に停止されていた天気予報が、終戦からわずか一週間後に復活したことにも大きく貢献している。その代わりに一方では、昭和13年に新設された陸軍気象部に、台長は嘱託、技師は技術将校として協力、さらに昭和18年には中央気象台を新設の運輸通信省に編入させた(現在、気象庁が国土交通省にあるのはこの為)。一方、地震研究所では所員を応召から守り、研究費を確保するための苦肉の策として、妹澤所長(昭和17年から)は「爆震爆風」と「地震探査」部門の新設と所員(教授と助教授)全員を陸軍臨時嘱託として第三陸軍航空技術研究所付とした。

東南海地震の主な調査報告書は3つある。一つは名古屋大学理学部が名古屋地方気象台の要請に基づき合同で行った現地調査の報告書。もう一つは中央気象台によるもので、全国の測候所による地震観測結果をまとめ、4班の現地調査チームを編成し、神戸海洋気象台の協力を得て、和歌山県から静岡県までの被災地全域を調査した結果の報告書。さらに地震研究所が当時若手の宮村、表、金井の3名を中心にテーマごとに現地調査をした報告書である。それぞれどのチームも調査を開始したのは地震発生翌々日の12月9日である。全ての調査は12月中にほぼ終了している。その後、それぞれが報告書を取りまとめたのが翌年1月から2月にかけてである。被災地が広範囲に及んでいること、遠距離の鉄道移動が制限されていたこと、さらにはその間、本土空襲が次第に本格化することなどを考えると、調査の迅速性には頭が下がる思いである。

ほぼ一月の調査結果は、全国61カ所の測候所の観測結果をもとに決めた震源位置と地震規模の評価や余震活動の把握、さらには地盤条件による揺れの違いと被害の関係、津波の波高分布と到達時刻の分布、津波波源域の推定、地殻変動による紀伊半島沿岸の沈降量分布、南海トラフでの地震の履歴、特に安政東海地震との関係など、現在われわれが知る東南海地震に関する知見のほぼ全てがその時点で明らかにされていたことが分る。

戦後、この地震の被害データの収集整理は飯田によって精力的に行われるが、その核となったのは、宮村による直後から始まる調査結果である。またそれらを再整理して武村・虎谷は詳細震度分布を求めている。また、近年山中や谷岡らが行っている地震波形や津波波形の震源インバージョンも、地震時にしっかりとした地震観測や潮位観測が行われていたからできることである。戦時統制下であっても研究者魂や測候所魂は健在で、できうるかぎりの調査がなされていた。さらにそれらが当時の高度な地震学のレベルの上に成り立っていたということを結論としたい。決して調査が十分行われていなかった訳ではない。

本報告は、名古屋大学減災連携研究センターで、2018年から実施した東南海地震プロジェクトの成果の一部である。成果の全体は名古屋大学減災連携研究センター(2019)『昭和19年東南海地震』全188頁を参照されたい。