9:15 AM - 9:45 AM
[S23-01] [INVITED]Progress and well-being of Open Science and research data sharing in international communities
1.はじめに
近年「オープンサイエンス」や「オープンデータ」などといった言葉を聞く機会が増えている。よくわからない、つかみどころがない、という声もある一方、国際的な科学政策では2013年G8での合意以来、とくに科学研究の「データ」を中心にした整備・共有(「オープン化」)の推進が重要なトピックとなっている(例えば内閣府(2015, 2018b[ym1] )など)。2013年ごろに国内で話をしてもなかなか議論にならなかった頃と比べれば大きな変化である。
「わくわく面白い」オープンサイエンスでは必ずしもないかもしれないが、科学が不要な無理をせず健全に活動できる、そして科学と社会が相互に恩恵をうけるようなそういう議論を目指したい。
2.「オープンサイエンス」とは
本稿で述べるオープンサイエンスは主に、欧米のアカデミーや政府機関・予算配分機関での議論に近い。英国王立協会や米国科学アカデミー、OECD(経済協力開発機構)やICSU(国際科学会議;2018年よりISC;国際学術会議)などがで科学発展に資する研究データ取扱いが議論される (例えばThe Royal Society、201[ym2] 8など)。近年の科学の相当部分がデータに依るのなら、それは論文と同様に科学の重要な要素であり、論文と同様に科学研究の成果物であり資源とする議論が活発である(AGU、2013[ym3] など)。なお「オープンデータ」は過去、政府系公共データのオープン化運動の呼称でもあったが、専門性のある科学データのそれとは大きく異なるため区別いただく必要がある。例えば欧州連合政府では異なる部局で取り扱われる。
3.地球惑星科学とデータ共有
地球惑星科学は長年にわたり観測データの共有、相互交換をコミュニティ活動の中にとりこんで発展してきた分野である。国際アカデミーであるICSUの下の科学データ委員会ICSU-World Data System(WDS;2008年設立)は現在は全学術領域を対象とするがその前身の1つWDC(World Data Centre)は国際地球観測年を契機として設置された。また国連海洋委員会下にある国際海洋データ交換機構(IODE)、世界気象機構(WMO)の気象データ交換網など、枚挙にいとまがない。オープンサイエンスや研究データ共有を、他の分野に先駆けて議論するにふさわしい分野といえる。
4.「オープン化」
「オープンサイエンス」「オープンデータ」というと、研究の過程のすべての情報やデータの公開と思われることが多いが、誤解といってよい。日本政府は「戦略的共有」という言葉で、競争性と共存するオープン化(これも近年では「オープン」と言わず「データ共有」などとも呼ぶ)を志向する(内閣府、2018a[ym4] )。オープン化やデータ開示が最終目的ではなく、科学研究の健全化、最適化、それによるよりよい科学成果の創出と社会への貢献、といった目標を探索し、これに基づいた戦略や行動が考えられるべきである。
5.科学の再現性とFAIRデータ原則
研究成果は一般に例えば専門家コミュニティによる議論や検証を経て正当と認められる。近代科学の原理からいえば、再現性(reproducibility)を担保するため記録の保存・共有が必要である(AAAS, 1990など)。その意味で、データを引用(data citation)すること、そのためにデータに論文で用いるようなDOIを付与する(mintという)こと、などいくつかの今後科学データの共同利用に求められる原則が、「FAIR(Findable, Accessible, Interoperable, Reusable)データ原則」(例えばWilkinson et al., 2016)[ym5] としてまとめられている。
6.まとめにかえて:科学の業績としての研究データへ向けて
近年では、DORA (San Francisco Declaration on Research Assessment)(DORA, 2013)で、研究評価や研究者採用においてデータセットをはじめ幅広い研究成果を対象にすべきという声明が出されAGU、EGUはじめ国際的に話題となっている。これまでの論文を出すことが研究の成果であった時代から、研究が何を世に残すかという視点から幅広い科学の在り方を、学術現場から議論する声があがっている。同サイトでは専門家の採用評価にオープンサイエンス活動が考慮された欧米の事例も紹介されている。科学者が知的営為によって生成したものが知的価値があるのならば、きちんと評価する、そうでなければ持続可能な科学制度が危機に瀕する、という認識と思われる。それはすなわち科学を統治原理とする現代社会にとっても危機であろう。社会と科学の持続的発展のための議論が今後も必要といえる。
近年「オープンサイエンス」や「オープンデータ」などといった言葉を聞く機会が増えている。よくわからない、つかみどころがない、という声もある一方、国際的な科学政策では2013年G8での合意以来、とくに科学研究の「データ」を中心にした整備・共有(「オープン化」)の推進が重要なトピックとなっている(例えば内閣府(2015, 2018b[ym1] )など)。2013年ごろに国内で話をしてもなかなか議論にならなかった頃と比べれば大きな変化である。
「わくわく面白い」オープンサイエンスでは必ずしもないかもしれないが、科学が不要な無理をせず健全に活動できる、そして科学と社会が相互に恩恵をうけるようなそういう議論を目指したい。
2.「オープンサイエンス」とは
本稿で述べるオープンサイエンスは主に、欧米のアカデミーや政府機関・予算配分機関での議論に近い。英国王立協会や米国科学アカデミー、OECD(経済協力開発機構)やICSU(国際科学会議;2018年よりISC;国際学術会議)などがで科学発展に資する研究データ取扱いが議論される (例えばThe Royal Society、201[ym2] 8など)。近年の科学の相当部分がデータに依るのなら、それは論文と同様に科学の重要な要素であり、論文と同様に科学研究の成果物であり資源とする議論が活発である(AGU、2013[ym3] など)。なお「オープンデータ」は過去、政府系公共データのオープン化運動の呼称でもあったが、専門性のある科学データのそれとは大きく異なるため区別いただく必要がある。例えば欧州連合政府では異なる部局で取り扱われる。
3.地球惑星科学とデータ共有
地球惑星科学は長年にわたり観測データの共有、相互交換をコミュニティ活動の中にとりこんで発展してきた分野である。国際アカデミーであるICSUの下の科学データ委員会ICSU-World Data System(WDS;2008年設立)は現在は全学術領域を対象とするがその前身の1つWDC(World Data Centre)は国際地球観測年を契機として設置された。また国連海洋委員会下にある国際海洋データ交換機構(IODE)、世界気象機構(WMO)の気象データ交換網など、枚挙にいとまがない。オープンサイエンスや研究データ共有を、他の分野に先駆けて議論するにふさわしい分野といえる。
4.「オープン化」
「オープンサイエンス」「オープンデータ」というと、研究の過程のすべての情報やデータの公開と思われることが多いが、誤解といってよい。日本政府は「戦略的共有」という言葉で、競争性と共存するオープン化(これも近年では「オープン」と言わず「データ共有」などとも呼ぶ)を志向する(内閣府、2018a[ym4] )。オープン化やデータ開示が最終目的ではなく、科学研究の健全化、最適化、それによるよりよい科学成果の創出と社会への貢献、といった目標を探索し、これに基づいた戦略や行動が考えられるべきである。
5.科学の再現性とFAIRデータ原則
研究成果は一般に例えば専門家コミュニティによる議論や検証を経て正当と認められる。近代科学の原理からいえば、再現性(reproducibility)を担保するため記録の保存・共有が必要である(AAAS, 1990など)。その意味で、データを引用(data citation)すること、そのためにデータに論文で用いるようなDOIを付与する(mintという)こと、などいくつかの今後科学データの共同利用に求められる原則が、「FAIR(Findable, Accessible, Interoperable, Reusable)データ原則」(例えばWilkinson et al., 2016)[ym5] としてまとめられている。
6.まとめにかえて:科学の業績としての研究データへ向けて
近年では、DORA (San Francisco Declaration on Research Assessment)(DORA, 2013)で、研究評価や研究者採用においてデータセットをはじめ幅広い研究成果を対象にすべきという声明が出されAGU、EGUはじめ国際的に話題となっている。これまでの論文を出すことが研究の成果であった時代から、研究が何を世に残すかという視点から幅広い科学の在り方を、学術現場から議論する声があがっている。同サイトでは専門家の採用評価にオープンサイエンス活動が考慮された欧米の事例も紹介されている。科学者が知的営為によって生成したものが知的価値があるのならば、きちんと評価する、そうでなければ持続可能な科学制度が危機に瀕する、という認識と思われる。それはすなわち科学を統治原理とする現代社会にとっても危機であろう。社会と科学の持続的発展のための議論が今後も必要といえる。