日本地震学会2022年度秋季大会

講演情報

D会場

一般セッション » S10. 活断層・歴史地震

[S10] PM-2

2022年10月26日(水) 15:00 〜 16:15 D会場 (5階(520研修室))

座長:松浦 律子(公益財団法人地震予知総合研究振興会)、大邑 潤三(東京大学地震研究所 地震予知研究センター)

15:00 〜 15:15

[S10-06] 1830年京都の地震による堤防被害とその後発生した水害について

*大邑 潤三1 (1. 東京大学地震研究所 地震予知研究センター)

1830年8月19日(文政十三年七月二日)に京都盆地北西部付近を震源とするM6.5±0.2と推定される地震が発生した.京都盆地南部では巨椋池周辺の堤防に亀裂や堤体の沈下が発生した.これらの地域は地震発生の半月後に豪雨に見舞われ,堤防が決壊して宇治川が流れを変え巨椋池に流れ込む状況となった.本事例は地震と洪水による複合災害といえる.地震による河川堤防の被害とその後発生する水害を考える上で,本事例の復原と分析は意義のあるものと考える.
本地震による京都盆地南部の被害については,伏見の比較的地盤の悪い地点で建物倒壊が発生し,葭島を埋め立てた場所では液状化が発生している.また淀城では櫓が2ヶ所破損し瓦や壁などが落ちたが淀大橋などの橋梁は無事であったとあり,いずれの地点も震度5強程度であったと推定される.
堤防の被害は紀伊郡で国役堤が1ヶ所(約100m)崩れ,地割れが1ヶ所(約50m)との記録がある.別の史料では豊後橋(現在の観月橋)から宇治までの堤防(槇島堤)で,東目川村から下島村までの約4Kmで堤防の上端が大荒れになり,100~200mほどの堤体が90~120㎝沈下して裂け割れたとある.小倉堤は至る所が悉く裂け15㎝ほど口を開き,場所によっては15㎝ほど堤体が沈下した.前年に切れた場所の新堤は1.5mほどゆり込んだ.
地震発生の約半月後9月4日の正午頃から豪雨となった.伏見では宇治川が氾濫して床上30cm余浸水したが,槇島付近で堤防が決壊して巨椋池へ流れ込んだため水が引いた.淀では床上90cmの浸水となった.宇治川が槇島で決壊したため,伏見から淀まで宇治川の川筋は水が無くなり歩ける程となった.
堤防の主な決壊場所を史料数点からまとめると,槇島堤は槇島村付近と豊後橋上流の2ヶ所,小倉堤は3~4ヶ所で決壊したようである.堤防決壊の様子を描いた絵図によると,槇島村と東目川村の間のやや東目川村寄りの堤防が約100m決壊し宇治川の水の9割が巨椋池に流れ込んだとある.また豊後橋では流れてきた宇治橋の部材が引っかかって落橋しそうになったが,橋の上流の堤防が約40m決壊したため落橋を免れた.小倉堤は向島村と西目川村の間で2ヶ所,三軒家村と小倉村の間で2ヶ所程度決壊した.
槇島堤における槇島村付近の決壊場所は地震によって被害が顕著であったとされる区間の南端付近にあたる.この付近は宇治川の屈曲部であり歴史的に頻繁に破堤する場所でもある.この地点の地震による堤防被害の実態および厳密な位置の特定は難しいが,地震により堤防が弱化していたところに豪雨で水量が増し,弱い屈曲部で破堤した可能性が考えられる.一方,豊後橋上流の破堤は豊後橋の堰き止めによるダムアップが主要因であろう.
小倉堤はほぼ全区間にわたって亀裂を生じ堤体が沈下しており洪水防御機能が損なわれていたと考えられる.槇島付近で宇治川の水が巨椋池東部に流れ込み水位が上がった結果,小倉堤の弱化した部分が決壊し巨椋池西部に流れ込んだと推測される.