The 2022 SSJ Fall Meeting

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Poster session (2nd Day)

Regular session » S10. Active faults and historical earthquakes

[S10P] PM-P

Tue. Oct 25, 2022 2:00 PM - 5:30 PM ROOM P-4 (10th floor (Conference Room 1010-1070))

2:00 PM - 5:30 PM

[S10P-06] The Large Earthquake on Dec. 7, 1493 Preceded the 1498 Meio-tokai Earthquake

*Tomoya HARADA1, Akihito NISHIYAMA2, Akihiko KATAGIRI3 (1. N/A, 2. Nara National Research Institute for Cultural Properties, 3. Research Institute for Natural Hazards and Disaster Recovery, Niigata Univ.)

1.はじめに
 16世紀以前に発生した地震については,現存史料の筆者がおもに京都・奈良を中心とした地域に限定されるために,被害等の実態が不明な場合がある.このような地震は『日本被害地震総覧599-2012』(宇佐美・他,2013)等の歴史地震カタログに掲載されていない.例えば,天正十三年七月五日(1585年7月21日)の地震は,三河深溝(現愛知県幸田町)にいた松平家忠の日記に「百年巳來之なへ之由申候」,京都・奈良の同時代史料に「大地震」と記録されており,規模が大きな地震だと考えられる.しかし,被害状況等が不明で歴史地震カタログには掲載されていない(松浦,2011).このような地震であっても,新史料の発見や,地震記事の信憑性の確認によって,その実態が明らかになりつつある場合がある.片桐(2020,2021)は,京都・奈良に記録がある明応二年十月二十九日(1493年12月7日)の地震は,三河・遠江でも記録された大地震だと指摘した.本研究では,この地震の候補となる地震について検討した.

2.明応二年十月二十九日の地震
 [古代・中世]地震・噴火史料データベース(β版)[https://historical.seismology.jp/eshiryodb/db/]によれば,『親長卿記』[甘露寺親長(1424-1500)の日記],『大乗院寺社雑事記』[興福寺大乗院門跡の尋尊(1430-1508)等の日記]といった京都・奈良で記された同時代史料に,明応二年十月二十九日の深夜から翌日にかけて複数回の「大地震」・「地震」,その後約1ヶ月間で数回の「地震」が記録されている.また,『常光寺年代記』(現愛知県田原市堀切の常光寺に伝わる年代記)には,明応二年に「十月廿九日夜戌剋斗ヨリ大地震、十一月五日迄時時震其後一日二日ツツ震事及四五度、又十二月四日卯尅大地震」と記録されている.この年代記に被害記事はないが,京都・奈良と同様に「大地震」とその後の余震と思われる地震が記録されているので,広範囲に揺れを及ぼした大地震が周辺域で発生したと考えられる.しかしながら,『常光寺年代記』の原本は昭和20年の戦災で焼失したために,現在は同寺に寄贈された写本の翻刻(伊那・清田,1961)が使用されており,この地震記事が,同時代に書かれたものか,後年に書き加えられたものか不明であった.

3.同時代史料としての『常光寺年代記』と『大唐日本王代年代記』
 片桐(2020)は,『常光寺年代記』の昭和4年の影写本(原本の上に薄い紙を重ね,原本の文字の形を忠実に敷き写したもの.誤字・脱字がなく,筆跡や記述方法の違いも分かる)が大倉精神文化研究所附属図書館(横浜市港北区)に所蔵されていることを見出し,史料学的分析を行った.その結果,『常光寺年代記』は常光寺住職3世の樹王によってまとめられて以来,断続的な時期も挟みながら,代々の住職や寺の関係者によって書き継がれてきたことは間違いないとした.すなわち,樹王が生存した文正元年(1466年)以降の記事は,伝聞・風聞を除き同時代史料だと結論した.したがって,明応二年の地震記事も信頼できる記録として扱える.ただし,地震当時,樹王は常光寺ではなく遠江の普済寺(現静岡県浜松市中区広沢)にいたので,その場所での記録となる.さらに,片桐(2021)は『大唐日本王代年代記』(現愛知県知多郡東浦町の乾坤院に伝来した年代記)についても史料学的分析を行い,文明七年(1475年)以降の記事は,尾張・三河・遠江の事柄を記した同時代史料であると結論した.そして,明応二年の「十月晦日、地大震、自寅刻至七度」という地震記事を発見し,明応二年十月二十九日の地震は,京都・奈良に加え,三河・遠江でも記録された大地震であると指摘した.

4.明応二年十月二十九日の地震の候補
 明応二年十月二十九日の地震は,京都〜遠江の広範囲に揺れを及ぼした大地震であるが,被害等の他の地震記録は未発見で,中部日本及びその太平洋側で発生した地震という程度しか分からない.しかし,この地震は1498年明応東海地震(M8.2〜8.4)の約5年前に発生しており,1707年宝永地震(M8.6)の約11年前に発生した1686年遠江・三河の地震(M7.0±1/4)のような,南海トラフ巨大地震に先行した地震の可能性がある.なお,京都の日記と『大唐日本王代年代記』には,二十九日(厳密には翌三十日)寅刻(午前3時〜5時)から一連の地震が始まったと記録されているが,『常光寺年代記』では同日戌刻(午後7時~9時)から始まったと記録されている.よって,震源は遠江に近い地域で,一連の地震の数時間前から前震的な活動が始まり出していた可能性も考えられる.他の候補として,複数のトレンチ調査から15〜16世紀頃に活動したことが明らかにされている阿寺断層の大地震の可能性もあるかも知れない.阿寺断層は,1586年天正地震(M7.8±0.1)の際に活動したとされているが[例えば,廣内・安江(2011)],伝承のみで同時代史料からそれを示す記録は見つかっておらず,松浦(2011)等は否定している.