[S23P-01] 1433年永享関東地震が前回の140年後に発生した可能性
●はじめに
Ishibashi (2020)は,1703年元禄地震より前の歴史上のプレート間関東巨大地震の候補として,1495年と1433年,1293年,878年の地震を挙げた.1495年明応地震については,金子(2012)が関東巨大地震だと主張しているが,石橋(2022)は1433年永享地震のほうがプレート間巨大地震の要件をより多く備えていると指摘した.ただし,どちらが関東巨大地震かは結論しなかった.今回,その後の検討結果として,永享地震が15世紀の関東巨大地震だろうという作業仮説を提唱する.
●1433年永享地震
史料: 用いる史料は(準)同時代史料のみで,関東地方の『鎌倉大日記(生田本)』(A),『神明鏡』(B),『喜連川判鑑』(C),『大宮神社古記録抄』(D),甲斐の『勝山記』(E),『王代記』(F),京都近郊の『看聞日記』(G),『満済准后日記(H)』である.
発生日時: 史料A〜Fでは十五日と十六日の2通りの日付があり,G・Hでは両日に複数の地震記事がある.G・Hの記事の検討から,本地震は永享五年九月十五日(1433.10.27)24時前後に発生したと判断する.
地震動被害: 鎌倉で山崩れ,すべての築地の崩壊(A),極楽寺の塔の九輪の落下(B)があったほか,京都の伝聞情報では堂舎が顛倒して死者が多かった(G).相模国中央部の大山寺で仁王像の首が落ち(B),甲府盆地北東の山梨市で六地蔵の転倒や崖崩れらしき被害があった(F).鎌倉の震度は少なくとも震度5強〜6弱,山梨市付近の震度は5弱〜5強と推定した.これらの震度分布は,本地震のMが8クラスだったことを示唆する.
余震活動: 鎌倉付近で朝までに30余度,その後20日間ほど,昼夜数十度の余震を感じた(A).
津波: 京都の伝聞情報では,東京湾に注いでいた利根川が逆流した(G).津波と思われるが,ほかに確かな津波記録はない.
内陸地震か: もし津波がなかったことが確定すれば内陸の上部地殻内地震と考えられる.鎌倉と山梨市の震度を考慮して,一番可能性の高い候補震源域と思われる伊勢原断層について検討した.しかし,既存のシナリオ地震の震度予測および地震動予測式から,伊勢原断層で最大のM 7地震では山梨市の震度が小さすぎる.完全に否定はできないが,伊勢原断層起源の可能性は低いと判断する.
富士山の噴火: Fが,永享七年に「富士ノ火炎見ヘタリ」と記している.6合目以上で溶岩流を出す穏やかな噴火があった可能性がある(小山,1998).
まとめ: 確実な津波記録がないのが問題だが,1495年地震に疑問点が多いことも考え合わせると,本地震が関東巨大地震だった可能性が高い.
●1495年明応地震の様々な疑問
金子(2012)は,伊東市宇佐美遺跡で発見された15世紀末と推定されるイベント堆積物を,『鎌倉大日記』が記す明応四年八月十五日(1495.9.3)の地震による津波堆積物と考えて,この地震がプレート間の関東巨大地震だと主張した.これに対して石橋(2022)は,(1)鎌倉が10mの津波で衰微したというのは過大推測,(2)京都の有感記録が鎌倉の地震によるかどうかは不明,(3)江の島の「地殻変動」はトンボロの消長の誤認,(4)宇佐美遺跡のイベント堆積物は海生珪藻化石の確認がなされていない,と指摘して金子説に疑問を呈した.今回さらに,(5)三浦・房総半島の地殻変動の記録はない,(6)関東・甲斐の同時代史料に記録が全くないのは不自然,(7)地震動被害と余震の記録が全くない,(8)宇佐美遺跡のイベント堆積物の出土遺物に大窯製品がないことから1485年頃より前の可能性がある,を加えて,関東巨大地震の可能性は低いと判断する.
●おわりに
一つの作業仮説として,1433年永享地震が相模トラフ巨大地震だろうと主張する.もしそれが正しければ,1293年正応(永仁)関東地震のわずか140年後にプレート間関東巨大地震が再来した事例があることになり,1923年大正関東地震から100年経過した今日,防災上もきわめて重大である.実際,Satake (2023) と佐竹・石橋(2023)が,歴史上のプレート間関東巨大地震の候補のいろいろな組み合わせについて「30年地震発生確率」の時間変化を計算しているが,「1923・1703・1433・1293地震」の組み合わせでは現時点ですでに8.9%である.今後は,1433年永享地震が伊勢原断層起源ではないことの証明と,津波を伴ったことの実証が必要であり,野外調査によって,伊勢原断層の変位イベントの発生時間幅をできるだけ狭めることと,発生年代をできるだけ絞り込んで海起源であることを確認したイベント堆積物の発見が鍵になる.いっぽう,宇佐美遺跡のイベント堆積物の再調査(起源と年代観)もきわめて重要である.
Ishibashi (2020)は,1703年元禄地震より前の歴史上のプレート間関東巨大地震の候補として,1495年と1433年,1293年,878年の地震を挙げた.1495年明応地震については,金子(2012)が関東巨大地震だと主張しているが,石橋(2022)は1433年永享地震のほうがプレート間巨大地震の要件をより多く備えていると指摘した.ただし,どちらが関東巨大地震かは結論しなかった.今回,その後の検討結果として,永享地震が15世紀の関東巨大地震だろうという作業仮説を提唱する.
●1433年永享地震
史料: 用いる史料は(準)同時代史料のみで,関東地方の『鎌倉大日記(生田本)』(A),『神明鏡』(B),『喜連川判鑑』(C),『大宮神社古記録抄』(D),甲斐の『勝山記』(E),『王代記』(F),京都近郊の『看聞日記』(G),『満済准后日記(H)』である.
発生日時: 史料A〜Fでは十五日と十六日の2通りの日付があり,G・Hでは両日に複数の地震記事がある.G・Hの記事の検討から,本地震は永享五年九月十五日(1433.10.27)24時前後に発生したと判断する.
地震動被害: 鎌倉で山崩れ,すべての築地の崩壊(A),極楽寺の塔の九輪の落下(B)があったほか,京都の伝聞情報では堂舎が顛倒して死者が多かった(G).相模国中央部の大山寺で仁王像の首が落ち(B),甲府盆地北東の山梨市で六地蔵の転倒や崖崩れらしき被害があった(F).鎌倉の震度は少なくとも震度5強〜6弱,山梨市付近の震度は5弱〜5強と推定した.これらの震度分布は,本地震のMが8クラスだったことを示唆する.
余震活動: 鎌倉付近で朝までに30余度,その後20日間ほど,昼夜数十度の余震を感じた(A).
津波: 京都の伝聞情報では,東京湾に注いでいた利根川が逆流した(G).津波と思われるが,ほかに確かな津波記録はない.
内陸地震か: もし津波がなかったことが確定すれば内陸の上部地殻内地震と考えられる.鎌倉と山梨市の震度を考慮して,一番可能性の高い候補震源域と思われる伊勢原断層について検討した.しかし,既存のシナリオ地震の震度予測および地震動予測式から,伊勢原断層で最大のM 7地震では山梨市の震度が小さすぎる.完全に否定はできないが,伊勢原断層起源の可能性は低いと判断する.
富士山の噴火: Fが,永享七年に「富士ノ火炎見ヘタリ」と記している.6合目以上で溶岩流を出す穏やかな噴火があった可能性がある(小山,1998).
まとめ: 確実な津波記録がないのが問題だが,1495年地震に疑問点が多いことも考え合わせると,本地震が関東巨大地震だった可能性が高い.
●1495年明応地震の様々な疑問
金子(2012)は,伊東市宇佐美遺跡で発見された15世紀末と推定されるイベント堆積物を,『鎌倉大日記』が記す明応四年八月十五日(1495.9.3)の地震による津波堆積物と考えて,この地震がプレート間の関東巨大地震だと主張した.これに対して石橋(2022)は,(1)鎌倉が10mの津波で衰微したというのは過大推測,(2)京都の有感記録が鎌倉の地震によるかどうかは不明,(3)江の島の「地殻変動」はトンボロの消長の誤認,(4)宇佐美遺跡のイベント堆積物は海生珪藻化石の確認がなされていない,と指摘して金子説に疑問を呈した.今回さらに,(5)三浦・房総半島の地殻変動の記録はない,(6)関東・甲斐の同時代史料に記録が全くないのは不自然,(7)地震動被害と余震の記録が全くない,(8)宇佐美遺跡のイベント堆積物の出土遺物に大窯製品がないことから1485年頃より前の可能性がある,を加えて,関東巨大地震の可能性は低いと判断する.
●おわりに
一つの作業仮説として,1433年永享地震が相模トラフ巨大地震だろうと主張する.もしそれが正しければ,1293年正応(永仁)関東地震のわずか140年後にプレート間関東巨大地震が再来した事例があることになり,1923年大正関東地震から100年経過した今日,防災上もきわめて重大である.実際,Satake (2023) と佐竹・石橋(2023)が,歴史上のプレート間関東巨大地震の候補のいろいろな組み合わせについて「30年地震発生確率」の時間変化を計算しているが,「1923・1703・1433・1293地震」の組み合わせでは現時点ですでに8.9%である.今後は,1433年永享地震が伊勢原断層起源ではないことの証明と,津波を伴ったことの実証が必要であり,野外調査によって,伊勢原断層の変位イベントの発生時間幅をできるだけ狭めることと,発生年代をできるだけ絞り込んで海起源であることを確認したイベント堆積物の発見が鍵になる.いっぽう,宇佐美遺跡のイベント堆積物の再調査(起源と年代観)もきわめて重要である.