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[02社-口-02] 1940年前後の外地における企業スポーツ
満洲電業の事例
日本では、職場単位あるいは企業単位のスポーツチームを構成し、他組織(部署、企業、官公庁、学校、等)のスポーツチームとの対抗戦によって覇を争う形の「企業スポーツ」文化が大規模に発展し、現在でも広く認められる。戦前日本のスポーツエリートはいわゆる内地にとどまらず支配地域に多く越境したが、その前提には、進出した日系企業による企業スポーツの振興があった(高嶋・金編著、2020、「帝国日本と越境するアスリート」、塙書房)。 本報告では、社員会誌『電業』のほか、満洲電業が発行した『満洲電業株式会社創立五周年記念』(1939)、『満洲電業の概要: 満洲電業入社希望者のために』(1939)等記録・広報用の冊子に加え、戦後に元社員が整理した『満洲電業史』(1976)、『思い出の満洲電業』Ⅰ〜Ⅳ(1982)、および養成所の卒業生らによって編まれた『わが青春の満洲:満州電業養志会終戦50周年記念文集』(1995)などを用いながら、1940年前後の満洲電業におけるスポーツ実践と、そのスポーツ実践を支えるリソースとロジックを紹介する。 事例として取り上げる満洲電業は、1934年、電源開発を目的に満鉄から独立し、散在していた既存の電力会社を統合する形でスタートした(本社:新京、資本金:6千万円)。6年目の1940年には50にのぼる企業を吸収し、電力消費量は創業時の5倍、資本金も3億2千万円になるなど急成長を続けていた。その中でスポーツは、福利厚生事業の担い手である社員会の主要なテーマであり続け、全満大会で5連覇を果たしたラグビーをはじめ、野球、庭球、水泳、柔道、剣道、弓道といった多種多様なスポーツクラブが満洲各地25の支部で整備(予算は支部ごとに請求)された。新京の独身寮「都南寮」は豪華なロビー、娯楽室、プールを備え、多くのスポーツ系社員の生活の舞台となった。康徳6(1940)年の社員会収支計算書では、「体育部費」および「野球部費」という費目の下、全支出の37.2%が占められた。ただし、これらのスポーツ事業は日本人社員のために展開され、非日本人社員との融和ではなく格差を温存するために機能したと考えられた。