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[S09-02] 明治から昭和にかけての気象庁の地震観測点の変遷の可視化
地震計で観測された明治以降の古い地震を調べるにあたって,当時,どのような観測点があったかを目視できるようにしてみたいと考えた.東京気象台に明治8年1875 年にパルミエリ地震計が設置されたのをはじめとして,その後,地震計は測候所等に徐々に展開されていった.なお,初期には,内務省地理局に設置されて,測候所に引き継がれたようなものもある.ここでは,地震観測業務履歴(地震火山部, 2002,以下,業務履歴と呼ぶ)に基づき,測候所等の開所と廃止の年月日,住所,緯度経度,諸地震計による観測の開始と終了,および,地震計による観測(ここでは地震観測とする)が全くできなかった休止期間などの情報について整理した.明治の地震の調査(橋本,JpGU2023)に関連して,その当時や昭和の半ばぐらいまでの観測点分布をみるため,データ入力を始めていたが,今年関東大震災から100年を迎えたのを機に,100年間の地震観測点分布の変遷を見ることにもつなげるため,まずは機械式の残存する1990年代半ばまでの期間を入力することにした.図の(a)に1894年の東京地震の頃の1894年の1年間,(b)にウィーヘルト地震計が展開されていた頃の1926年,(c)に終戦の1945年,および(d)に67型磁気テープ記録式電磁地震計と76型磁気テープ記録式地震計(以下,67型と76型)が展開されていた概ねの期間として1967-74年と1977-79年の地震観測点を示す.青色は地震計が稼働している観測点,赤色は地震計がその年に導入された観測点,茶色は数か月以上休止した観測点,緑色はウィーヘルト地震計がその年に導入された観測点,黄色は67型,紫は76型である.薄ピンクは測候所等の開所した年にプロットされている.図のそれぞれ左上の数値は年,稼働観測点数,休止した観測点数を示す.図(d)には赤,薄ピンクは表示せず,観測点の稼働休止は,1967-74年の期間のものを示す.図(a)の1894年では,全国で34カ所とまばらに分布しており,関東地方においては,東京,銚子,水戸,前橋の4カ所で地震観測が行われており,また,中部の名古屋・岐阜・金沢でも既に行われているが,業務履歴によると,この3カ所は1891年濃尾地震の前の1887年から地震計が設置されていた.1926年にはウィーヘルト地震計が導入された観測点は図(b)に示すように14カ所(内2カ所1926年以前)ある.岡田武松の「測候瑳談」のウィーヘルト地震計の項に「関東大震災後に地震の観測を確かりやる・・・地方は測候所は十三個所で乃ち根室,札幌,秋田,仙台,銚子,沼津,長野,濱田,長崎,宮崎,高知,洲本,名古屋である.附属測候所では,七個所で柿岡,富江,八丈島,父島,潮岬,名瀬,石垣島・・・」とある(濱田,験震時報,2002).業務履歴によると,これらの観測点では1924年柿岡から始まり,1931年名瀬に導入されて目標は達成されている.一方,上記の地点を除いて,東京に1912年に初めて購入され,神戸で1923年5月と早く,盛岡,前橋,熊谷にも1924年に導入され,1930年までで16カ所展開されており,測候所の独自性も感じられる.その後,1950年代から気象庁一倍強震計(50型,51型,52型)や1960年代にはウィーヘルト地震計の後継機の100倍の59型直視式地震計と500-1000倍程度の59型光学式地震計が展開されている.図(d)に示すように1960年代後半から,1000倍の高感度地震計である67型が気象台等の50カ所に展開されたが,地震の検知能力には,あまり効果がなかったようである.太田他(験震時報,2002)によると76型で検知能力が向上したとされている.また,様々な事情で地震観測が中断することがあるが,業務履歴の記載に,空襲,戦災,あるいは紙不足という記述があったりして,比較的長く中断していた観測点が多かったのが,1945年であり(図(c)),翌年も同程度の箇所が長期の休止となっていた. 謝辞:水戸地方気象台の南海トラフ地震防災官の菊池康友氏には,気象台に保管されている記象紙を調査していただき,感謝いたします.