[PH071] フリースクールにおける「おしゃべり」の機能
不登校経験のある子どもたちの語りからの検討
Keywords:フリースクール, 不登校, アイデンティティ
問題の所在
現代日本のフリースクールに関する研究の多くは,構築主義の観点から,不登校者の自己アイデンティティに着目し,そこに以下のような回復過程のモデルを見出している(朝倉1995,貴戸2004)。すなわち,不登校の当事者たちは,似た境遇の者たちが集う場,学校的なものが周到に排除された場の中で,安心して自己の経験を語る/語り直すことができ,それによって,それまでの否定的な自己物語を書き換え,不登校体験を肯定的に受容できるようになる,というものである。
しかし,佐川(2006)が指摘するように,不登校者たちの経験の語りがフリースクールの日常で現前することは慎重に回避されている。エスノグラフィーの多くが示すように,そこでの日常の大半を占めるのは,たわいのない「おしゃべり」「雑談」の類である。先行研究はこれらのうちに,経験の語りを「秘密」の領域に枠づける機能(佐川2009)や仲間づくりを促進する機能(森田2008)を読み込んできたが,そこにもっと積極的な意味はないか。本発表では,そうしたフリースクールの日常における「おしゃべり」の意義や効用を,事例に基づいて検討したい。
調査概要
調査対象は,地方都市A市に拠点を置くNPO法人・T舎(仮)が運営するフリースクールを利用する/していた10~20代の男女9人の不登校者(不登校経験者)。彼/彼女らに対し,2007年2月~12月に4回にわたってT舎を訪れ,その不登校/フリースクール体験に関するインタビュー調査を行った。不登校の体験を通じて,またフリースクールでの生活を通じて,自身の家族/学校/自己に関する意味づけが変わったか,変わったとすればどう変わったのかを尋ね,得られた語りをもとに,彼/彼女らにとって,フリースクールの日常を構成する「おしゃべり」がどんな意味をもっているのかを明らかにし,その含意について考察した。
結果・考察
彼/彼女らのフリースクール体験から集約的に言えるのは,次のような回復過程のイメージである。すなわち,最初はネガティブな理解が一般的だが,そこで実際にさまざまな他者と出会い,コミュニケーションを重ねていくなかで,不登校/フリースクールに関する負のイメージや規範意識がゆるんでいく。その変容とともに,彼/彼女らは,そうしたコミュニケーションに参加する/できる自己を受容し,ポジティヴに評価できるようになり,そうした肯定的な自己像を足場に,将来への動機を手に入れる,というものだ。
以上の過程の重要な舞台となっていたのが,日常での「おしゃべり」や「雑談」であった。これらは,偶発的なものでも意図せざる結果でもなく,フリースクールの支援者たちによって意図的に仕掛けられ,活性化されていたものである(スタッフ・ミーティングでの話題の大半は,会話の質をめぐるやりとりであった)。T舎では,日常の「おしゃべり」を通じて他者性や複数性に触れさせる「コミュニケーションとしての教育」(岩川2008)――「社会参画の支援」と呼ばれていた――が実践されており,そこでの試行錯誤を経て,利用者たちは「社会」の当事者,「主体者」としての自己像を獲得していた。
とすると,「おしゃべり」の実践には,行動的シティズンシップ(active citizenship)の育成という側面も存在していることになる。目指されているのは,不登校者たちの学校という共同体への包摂ではなく,市民社会=公共圏への包摂である。ここには,不登校経験の肯定云々とはまた別の,アイデンティティ構築の回路が開かれている。これもまた,フリースクールという実践が子どもたちに提供しているもののひとつなのである。
現代日本のフリースクールに関する研究の多くは,構築主義の観点から,不登校者の自己アイデンティティに着目し,そこに以下のような回復過程のモデルを見出している(朝倉1995,貴戸2004)。すなわち,不登校の当事者たちは,似た境遇の者たちが集う場,学校的なものが周到に排除された場の中で,安心して自己の経験を語る/語り直すことができ,それによって,それまでの否定的な自己物語を書き換え,不登校体験を肯定的に受容できるようになる,というものである。
しかし,佐川(2006)が指摘するように,不登校者たちの経験の語りがフリースクールの日常で現前することは慎重に回避されている。エスノグラフィーの多くが示すように,そこでの日常の大半を占めるのは,たわいのない「おしゃべり」「雑談」の類である。先行研究はこれらのうちに,経験の語りを「秘密」の領域に枠づける機能(佐川2009)や仲間づくりを促進する機能(森田2008)を読み込んできたが,そこにもっと積極的な意味はないか。本発表では,そうしたフリースクールの日常における「おしゃべり」の意義や効用を,事例に基づいて検討したい。
調査概要
調査対象は,地方都市A市に拠点を置くNPO法人・T舎(仮)が運営するフリースクールを利用する/していた10~20代の男女9人の不登校者(不登校経験者)。彼/彼女らに対し,2007年2月~12月に4回にわたってT舎を訪れ,その不登校/フリースクール体験に関するインタビュー調査を行った。不登校の体験を通じて,またフリースクールでの生活を通じて,自身の家族/学校/自己に関する意味づけが変わったか,変わったとすればどう変わったのかを尋ね,得られた語りをもとに,彼/彼女らにとって,フリースクールの日常を構成する「おしゃべり」がどんな意味をもっているのかを明らかにし,その含意について考察した。
結果・考察
彼/彼女らのフリースクール体験から集約的に言えるのは,次のような回復過程のイメージである。すなわち,最初はネガティブな理解が一般的だが,そこで実際にさまざまな他者と出会い,コミュニケーションを重ねていくなかで,不登校/フリースクールに関する負のイメージや規範意識がゆるんでいく。その変容とともに,彼/彼女らは,そうしたコミュニケーションに参加する/できる自己を受容し,ポジティヴに評価できるようになり,そうした肯定的な自己像を足場に,将来への動機を手に入れる,というものだ。
以上の過程の重要な舞台となっていたのが,日常での「おしゃべり」や「雑談」であった。これらは,偶発的なものでも意図せざる結果でもなく,フリースクールの支援者たちによって意図的に仕掛けられ,活性化されていたものである(スタッフ・ミーティングでの話題の大半は,会話の質をめぐるやりとりであった)。T舎では,日常の「おしゃべり」を通じて他者性や複数性に触れさせる「コミュニケーションとしての教育」(岩川2008)――「社会参画の支援」と呼ばれていた――が実践されており,そこでの試行錯誤を経て,利用者たちは「社会」の当事者,「主体者」としての自己像を獲得していた。
とすると,「おしゃべり」の実践には,行動的シティズンシップ(active citizenship)の育成という側面も存在していることになる。目指されているのは,不登校者たちの学校という共同体への包摂ではなく,市民社会=公共圏への包摂である。ここには,不登校経験の肯定云々とはまた別の,アイデンティティ構築の回路が開かれている。これもまた,フリースクールという実践が子どもたちに提供しているもののひとつなのである。