[準企シ] 教育の生物学的基盤
進化か文化か
キーワード:進化生物学, 文化人類学
企画趣旨
教育を「他者の学習をうながす利他行動」と定義したとき,それを行っている動物はごくわずかしか確認されていない。進化的にヒトに最も近いチンパンジーですら,教育をその学習様式に取り入れている形跡はほとんどない。一方,ヒトは生存のための膨大な文化的知識を教育なしに学習することは不可能である。文化の創造・蓄積・伝達がヒトの本質的特徴だとすれば,それを支える教育という学習様式もまた,ヒトをヒトたらしめている本質を反映しているといえよう。
近年,発達心理学や比較認知科学において,教え教わるという学習様式が,系統発生的にも個体発生的にも人間の誕生とともに表れ,その生得性や進化的基盤を示唆する知見が報告されるようになってきた。その一方で,狩猟採集社会に見られる文化伝達の生態学的状況を報告する文化人類学からは,もっぱら自由放任の中で子どもが自ら文化的知識を学んでいく様子が描かれ,教育とは西欧化され(western)知識に依存した人々の作る(educated)産業化された(industrialized)豊かで(rich)民主的な(democratic)社会という,「おかしな」(WEIRD)社会の産物であると主張されている。
果たして教育という学習様式は進化の産物なのか,文化の産物なのか。この問いはわれわれ現代人が「教育」をどのようなものとみなし,どのような教育を構築してゆかねばならないのかを考える上できわめて重要であるにもかかわらず,これまで十分に議論されてこなかった。本シンポジウムはこの問題に対する多様なアプローチからの見解を通して,教育とは何かについて考える。
心の発達と教育の進化的基盤
明和政子
私たちが他者の心の状態を理解するとき,おもに2つの脳神経ネットワークが関与する。ひとつは「ミラーニューロン・システム」と呼ばれるものである。観察した他者の行為と自分の行為経験とが鏡のように照合され,他者の行為の目的や意図が予測的に理解される。しかし,行為の観察-実行の照合だけでは他者との相互作用は円滑に進まない。文脈に応じて自分の心的状態を他者のそれと分離して理解する能力が必要である。前頭前野の関与を中心とする「メンタライジング・ネットワーク」は,ミラーニューロン・システムの活動をトップダウンに抑制し,他人の心の状態を文脈に応じて推論,解釈することを可能にする。メンタライジングは,ヒトに特異的に備わっている認知機能であり,ヒトの直接の祖先がチンパンジーの祖先と系統的に分岐したどこかの時点で獲得してきたとみられる。メンタライジングにもとづき他者の心的状態を推論できるヒトは,種特有の向社会的行動をみせる。その代表例が,利他行動のひとつである「積極的教育(active teaching)」である。ヒトは学習者の視点にたって心の状態を推論し,適切な教育方法を選択,提供する。ヒトがみせるような積極的な教育・協力行動は,チンパンジーでも確認されていない。さらに,ヒト特有の教育を議論するうえで考慮すべき重要な点がある。ヒトでは,前頭前野の成熟が成人レベルに達するまでにきわめて長い時間を要する(20代後半)。それに対し,感情系と報酬系の中枢である大脳辺縁系は,思春期開始とともに性ホルモンの影響を受けて急激に成熟し,数年で成人レベルに達する(この時期にみられる新奇なものへの強い好奇心,見知らぬ世界への冒険心,強い刺激を求める衝動性の一因)。大脳辺縁系が駆り立てる強い衝動性や感情,それを制御する高次認知機能が不均衡となってしまう時期がヒトでは10年余りも続く。当日は,環境としてのヒトの教育特性を脳発達の敏感期との関連で議論したい。
「教わる」と「教える」のあいだ:その発達的起源
橋彌和秀
発達研究が,勿論相応の妥当性を踏まえた上ではあれ,「オトナが教え/コドモが学ぶ」という教育観に拠って立ってきたことは否定できない。ヒトが発達早期から既に「効率的な社会的学習者」である可能性も議論され,注目を集めてきた(Csibra & Gergely,2009等)。本発表では,教育を議論する手がかりとして,社会的学習と教示行動の発達的起源に関わる我々の研究を紹介したい。
まず,社会的学習プロセスにはヒトの生物学的基盤が大きく関与している。感覚性強化手続きをもちいた行動実験から,顔向きとポジティブなインタラクションを伴う他者の視線が,生後6-7か月の段階で学習における強化子として作用することが示された(Sakaguchi, etal, 2018)。社会的要因を反映したヒトの目の形態進化(Kobayashi & Hashiya,2011)も,この学習に貢献しているだろう。教示に関しては,自他の認識論的状態(epistemic states)の相異を踏まえた上で,相手が知らないであろう対象の存在を自発的に指さし「教え」たり(Meng & Hashiya, 2014),第三者的視点から「気づいていない」他者に視線を向ける(Meng, etal, 2017)という,一定レベルの認識論的理解を踏まえた教示行為が,遅くとも1歳半児で見られることがあきらかになった。
「教わる」と「教える」の両者には,「自他の認識論的状態を均衡化しようとする傾向性」という共通項が指摘できる。この傾向性は,ヒト的な社会性を可能にする心的基盤のひとつと捉えることができるのではないか。「自他の峻別」という,自我の成立に不可欠な要請の一方で「自他が混ざる/同一化される」傾向性の併存が,社会の成立に果たす適応価とある種の危険性は,教育が孕む両義的な属性そのものであるとも言えるだろう。
人間進化における教育
中尾 央
各種の情報伝達プロセスにおいて,おそらく人間ほど教育が重要な役割を果たしている種は存在しないだろう。ではこの教育は,実際にどのような形で,そしてどの程度,人間進化のプロセスに影響を与えてきたのだろうか。
本発表では以下の二点に注目しながら,人間進化において教育が果たした役割について議論する。まずは,近年発達心理学の文脈において教育(特に明示的な指示にもとづく教育行動)に特化した心的適応形質として提案された,ナチュラル・ペダゴジーにまつわる各種実験や,その解釈を批判的に検討する(e.g., Csibra & Gergely 2011; Nakao & Andrews 2014)。
次に,ナチュラル・ペダゴジー説が想定する教育の選択圧や進化プロセスに関して,民族誌やヒト以外の動物に関する研究を参照しながら,教育行動をより詳細に分析することで,ナチュラル・ペダゴジー説の支持者が想定する「教育」が単純化されすぎている点を指摘する(e.g., Lew-Levi et al. 2017; 中尾2016)。
本発表では,以上二点の検討を通じ,人間行動の進化において,なんらかの形で教育が重要な役割を果たしたこと自体は認めつつも,それがナチュラル・ペダゴジーのような「教育に特化した適応形質」を進化させた可能性については懐疑的であると主張する。
教育の文化的多様性と子どもの学び:
アフリカ子ども学の視点から
亀井伸孝
ヒトは,言語と教育により,今日の複雑かつ巨大な物質文化を築くに至った。このことを疑う立場はないであろう。また,地域,時代,集団によらず,何らかの教育があり,学習があり,それらにより世代をこえて文化が伝承されてきたことも,また疑いえない事実である。ヒトには教育的行動を生み出す普遍的な能力がそなわっていると考えることは妥当であり,それが進化の結果としてもたらされたということもまた理解可能である。
一方,このヒトにそなわった教育の能力が,具体的な文化的営為のなかで,どの程度頻繁に,強力に,多様に,またいかなる社会関係に位置づけられて用いられてきたか/いるかについては,文化的多様性が認められると考えられる。私たちは「アフリカ子ども学」の名のもと,自然生態系に依拠して暮らすアフリカ諸社会の子どもたちに関するフィールドワークに根差した通文化的研究を行ってきた(清水・亀井編 2017)。環境と生業の多様性を反映し,子どもたちの学びと育ち,大人たちの接し方にも多様性が認められ,「大人による教育」が文化伝達において卓越した要因となっているとは限らない事例にも接することができる。
「教育は近代社会が構築したものである」と断定することは適切でない。一方で,近代社会の教育の存在を前提にしつつ,遡及的に,人間の諸社会と進化の過程の中にその関連要素を見出そうとする視点は,その要素によって近代の教育の存在を再び肯定するというトートロジカルな論法を生む可能性がある。狩猟採集社会などの多様な事例に学びつつ,近代教育に収斂させるのではない,人間の文化的多様性に開かれた教育・学習論の視座を共有していくことを提起する。
教育を「他者の学習をうながす利他行動」と定義したとき,それを行っている動物はごくわずかしか確認されていない。進化的にヒトに最も近いチンパンジーですら,教育をその学習様式に取り入れている形跡はほとんどない。一方,ヒトは生存のための膨大な文化的知識を教育なしに学習することは不可能である。文化の創造・蓄積・伝達がヒトの本質的特徴だとすれば,それを支える教育という学習様式もまた,ヒトをヒトたらしめている本質を反映しているといえよう。
近年,発達心理学や比較認知科学において,教え教わるという学習様式が,系統発生的にも個体発生的にも人間の誕生とともに表れ,その生得性や進化的基盤を示唆する知見が報告されるようになってきた。その一方で,狩猟採集社会に見られる文化伝達の生態学的状況を報告する文化人類学からは,もっぱら自由放任の中で子どもが自ら文化的知識を学んでいく様子が描かれ,教育とは西欧化され(western)知識に依存した人々の作る(educated)産業化された(industrialized)豊かで(rich)民主的な(democratic)社会という,「おかしな」(WEIRD)社会の産物であると主張されている。
果たして教育という学習様式は進化の産物なのか,文化の産物なのか。この問いはわれわれ現代人が「教育」をどのようなものとみなし,どのような教育を構築してゆかねばならないのかを考える上できわめて重要であるにもかかわらず,これまで十分に議論されてこなかった。本シンポジウムはこの問題に対する多様なアプローチからの見解を通して,教育とは何かについて考える。
心の発達と教育の進化的基盤
明和政子
私たちが他者の心の状態を理解するとき,おもに2つの脳神経ネットワークが関与する。ひとつは「ミラーニューロン・システム」と呼ばれるものである。観察した他者の行為と自分の行為経験とが鏡のように照合され,他者の行為の目的や意図が予測的に理解される。しかし,行為の観察-実行の照合だけでは他者との相互作用は円滑に進まない。文脈に応じて自分の心的状態を他者のそれと分離して理解する能力が必要である。前頭前野の関与を中心とする「メンタライジング・ネットワーク」は,ミラーニューロン・システムの活動をトップダウンに抑制し,他人の心の状態を文脈に応じて推論,解釈することを可能にする。メンタライジングは,ヒトに特異的に備わっている認知機能であり,ヒトの直接の祖先がチンパンジーの祖先と系統的に分岐したどこかの時点で獲得してきたとみられる。メンタライジングにもとづき他者の心的状態を推論できるヒトは,種特有の向社会的行動をみせる。その代表例が,利他行動のひとつである「積極的教育(active teaching)」である。ヒトは学習者の視点にたって心の状態を推論し,適切な教育方法を選択,提供する。ヒトがみせるような積極的な教育・協力行動は,チンパンジーでも確認されていない。さらに,ヒト特有の教育を議論するうえで考慮すべき重要な点がある。ヒトでは,前頭前野の成熟が成人レベルに達するまでにきわめて長い時間を要する(20代後半)。それに対し,感情系と報酬系の中枢である大脳辺縁系は,思春期開始とともに性ホルモンの影響を受けて急激に成熟し,数年で成人レベルに達する(この時期にみられる新奇なものへの強い好奇心,見知らぬ世界への冒険心,強い刺激を求める衝動性の一因)。大脳辺縁系が駆り立てる強い衝動性や感情,それを制御する高次認知機能が不均衡となってしまう時期がヒトでは10年余りも続く。当日は,環境としてのヒトの教育特性を脳発達の敏感期との関連で議論したい。
「教わる」と「教える」のあいだ:その発達的起源
橋彌和秀
発達研究が,勿論相応の妥当性を踏まえた上ではあれ,「オトナが教え/コドモが学ぶ」という教育観に拠って立ってきたことは否定できない。ヒトが発達早期から既に「効率的な社会的学習者」である可能性も議論され,注目を集めてきた(Csibra & Gergely,2009等)。本発表では,教育を議論する手がかりとして,社会的学習と教示行動の発達的起源に関わる我々の研究を紹介したい。
まず,社会的学習プロセスにはヒトの生物学的基盤が大きく関与している。感覚性強化手続きをもちいた行動実験から,顔向きとポジティブなインタラクションを伴う他者の視線が,生後6-7か月の段階で学習における強化子として作用することが示された(Sakaguchi, etal, 2018)。社会的要因を反映したヒトの目の形態進化(Kobayashi & Hashiya,2011)も,この学習に貢献しているだろう。教示に関しては,自他の認識論的状態(epistemic states)の相異を踏まえた上で,相手が知らないであろう対象の存在を自発的に指さし「教え」たり(Meng & Hashiya, 2014),第三者的視点から「気づいていない」他者に視線を向ける(Meng, etal, 2017)という,一定レベルの認識論的理解を踏まえた教示行為が,遅くとも1歳半児で見られることがあきらかになった。
「教わる」と「教える」の両者には,「自他の認識論的状態を均衡化しようとする傾向性」という共通項が指摘できる。この傾向性は,ヒト的な社会性を可能にする心的基盤のひとつと捉えることができるのではないか。「自他の峻別」という,自我の成立に不可欠な要請の一方で「自他が混ざる/同一化される」傾向性の併存が,社会の成立に果たす適応価とある種の危険性は,教育が孕む両義的な属性そのものであるとも言えるだろう。
人間進化における教育
中尾 央
各種の情報伝達プロセスにおいて,おそらく人間ほど教育が重要な役割を果たしている種は存在しないだろう。ではこの教育は,実際にどのような形で,そしてどの程度,人間進化のプロセスに影響を与えてきたのだろうか。
本発表では以下の二点に注目しながら,人間進化において教育が果たした役割について議論する。まずは,近年発達心理学の文脈において教育(特に明示的な指示にもとづく教育行動)に特化した心的適応形質として提案された,ナチュラル・ペダゴジーにまつわる各種実験や,その解釈を批判的に検討する(e.g., Csibra & Gergely 2011; Nakao & Andrews 2014)。
次に,ナチュラル・ペダゴジー説が想定する教育の選択圧や進化プロセスに関して,民族誌やヒト以外の動物に関する研究を参照しながら,教育行動をより詳細に分析することで,ナチュラル・ペダゴジー説の支持者が想定する「教育」が単純化されすぎている点を指摘する(e.g., Lew-Levi et al. 2017; 中尾2016)。
本発表では,以上二点の検討を通じ,人間行動の進化において,なんらかの形で教育が重要な役割を果たしたこと自体は認めつつも,それがナチュラル・ペダゴジーのような「教育に特化した適応形質」を進化させた可能性については懐疑的であると主張する。
教育の文化的多様性と子どもの学び:
アフリカ子ども学の視点から
亀井伸孝
ヒトは,言語と教育により,今日の複雑かつ巨大な物質文化を築くに至った。このことを疑う立場はないであろう。また,地域,時代,集団によらず,何らかの教育があり,学習があり,それらにより世代をこえて文化が伝承されてきたことも,また疑いえない事実である。ヒトには教育的行動を生み出す普遍的な能力がそなわっていると考えることは妥当であり,それが進化の結果としてもたらされたということもまた理解可能である。
一方,このヒトにそなわった教育の能力が,具体的な文化的営為のなかで,どの程度頻繁に,強力に,多様に,またいかなる社会関係に位置づけられて用いられてきたか/いるかについては,文化的多様性が認められると考えられる。私たちは「アフリカ子ども学」の名のもと,自然生態系に依拠して暮らすアフリカ諸社会の子どもたちに関するフィールドワークに根差した通文化的研究を行ってきた(清水・亀井編 2017)。環境と生業の多様性を反映し,子どもたちの学びと育ち,大人たちの接し方にも多様性が認められ,「大人による教育」が文化伝達において卓越した要因となっているとは限らない事例にも接することができる。
「教育は近代社会が構築したものである」と断定することは適切でない。一方で,近代社会の教育の存在を前提にしつつ,遡及的に,人間の諸社会と進化の過程の中にその関連要素を見出そうとする視点は,その要素によって近代の教育の存在を再び肯定するというトートロジカルな論法を生む可能性がある。狩猟採集社会などの多様な事例に学びつつ,近代教育に収斂させるのではない,人間の文化的多様性に開かれた教育・学習論の視座を共有していくことを提起する。