日本地質学会第128年学術大会

講演情報

ポスター発表

T5.[トピック]文化地質学

[3poster01-02] T5.[トピック]文化地質学

2021年9月6日(月) 16:00 〜 18:30 ポスター会場 (ポスター会場)

16:00 〜 18:30

[T5-P-2] 南方熊楠の鉱物・化石標本コレクション

*石橋 隆1、土永 知子2 (1. 益富地学会館 / 南方熊楠記念館 / 大阪大学総合学術博物館 / 国際日本文化研究センター、2. 南方熊楠顕彰館 )

キーワード:南方熊楠、鉱物、化石

【 南方熊楠(みなかたくまぐす)
 日本の近代化黎明期に活躍し、世界的博物学者と称される。江戸時代末の1867年5月18日(慶応3年4月15日)に紀州に生まれる。旧制和歌山中学校、東京大学予備門を経て、19歳から14年間米国、英国などへ海外遊学する。10数ヶ国語を自由に使いこなして国内外に多くの論文を発表し、日本に「ミナカタ」ありと世界の学者を振り向かせ、自然科学、民族学などに多くの足跡を残す。生涯在野の学者に徹した熊楠の活動や研究範囲は非常に広範で、現在も全容が解明されるには至っていない。業績面では特に粘菌(変形菌)の分類学の基礎を固めた生物学者としてや、柳田国男らと日本における民俗学ソサエティの立ち上げを行ったことで知名度が高い。熊楠については彼自身の人物像についても多くの研究がなされている。

【 熊楠の鉱物化石標本 】
  南方熊楠が、少年期から東京大学予備門生時代、渡米期などに鉱物や化石などの地質標本を蒐集していたことは殆ど知られていないが、標本約300点が現存し、南方熊楠記念館(和歌山県白浜町)に収蔵されている。この標本群は熊楠が終生所有していた遺品で、1996年に整理が行われた際に3日間にわたって調査され、再調査の要ありと判断されていたが、以後も詳細な調査は行われていなかった。2019年に標本図録(土永・石橋)が制作され、今回はさらに標本の同定および入手方法や時期についての精査が行われたために内容を報告する。
 鉱物および化石標本は、熊楠が渡米前に地質標本蒐集用に製作した黒い箪笥(1886(明治19)年3月21日の日記に記録あり)に収められている。これらの標本の大半は、熊楠が上京した1885(明治18)年から渡米中の1889(明治22)年に収集されている。熊楠は幼少期から『和漢三才図会』『本草綱目』『雲根誌』などを抜書し「本草学」で知識を得た。標本は、江戸期の木村蒹霞堂による「貝石標本」のように、鉱物、化石、考古遺物および貝類を同じ標本箱に保管している。また、標本付属の紙片(ラベル)や日記に、「紫石英」「陽起石」「ツキノサガリ」など熊楠が幼少の頃から抜書をした「本草書」に採録されている、江戸期あるいは中国古来の石の名称が記されているものもみられる。熊楠の鉱物・化石コレクションには「本草学」( ≒ 江戸時代の博物学)の影響が強くみられる。 熊楠は、通称『熊楠日記』とよばれる懐中日記に日常を詳細に記録していたが、そこに入手や採集の記録がある標本が多数現存することも判明した。なかには論文にスケッチが掲載された標本の実物も確認された。『熊楠日記』はそれ自体が研究対象にされ、関連する報告書や書籍が多く出されているが、地質標本に関連する部分については一般的ではない名詞や用語が多く、地質学、鉱物学、古生物学などの専門知識に加えて、江戸期の本草学、蘭学、鉱業などの知識も併せ持って読み解かないと理解が容易ではなく、これまでにあまり注目されていなかった。 熊楠については、前述の通り、生物学者(粘菌等)や民俗学者的側面の活動や業績が特に知られるが、今回行われた鉱物や化石などの地質標本の調査において、少年期の多感な時期から青年期にかけて、親友らと鉱物標本の蒐集や鉱物の洋書を翻訳するなど、地質学鉱物学に強い興味を示し、標本の蒐集を通しての人付き合いが、彼の人格形成に大きく影響を与えた様子を読み取ることができる。

【 引用文献 】
土永・石橋(2019):南方熊楠の鉱物・化石コレクション展2019.フィールドミュージアム番所山南方熊楠記念館特別展図録, 番所山を愛する会・公益財団法人南方熊楠記念館, 36総頁.