日本体育・スポーツ・健康学会第72回大会

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キーノートレクチャー

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体育社会学/キーノートレクチャー/体育社会学の専門性を俯瞰する

2022年9月2日(金) 11:00 〜 11:50 第7会場 (2号館1階12教室)

司会:原 祐一(岡山大学)、工藤 保子(大東文化大学)

[02社-レクチャー-1] 体育社会学の専門性を俯瞰する

*海老原 修1 (1. 尚美学園大学)

<演者略歴>
1986年東京大学教育学部助手
1987年横浜国立大学教育学部専任講師、1988年同助教授、2001年同教授
2021年尚美学園大学スポーツマネジメント学部教授
わが国に初出したsportをH.Spencer「Education~Intellectual, Moral and Physic」(Hurst & Company PUBLISHERS,NY,1875)にあるsporting tendencyに求めた。5年後、明治13年尺振八「斯氏教育論」(国書刊行会、1900)は当該箇所を「獵癖ヲ逞シクスル」と訳す。春猟を蒐、夏猟を苗、秋猟を爾、冬猟を狩と峻別し、四季を通じた狩猟に獵を充てる。文久遣欧使節団やアメリカ公使館通詞の経歴よりsportの語形deportareや地主の特権的遊び・狐狩りを知っていたのだろう。portare=ものをもち運び、否定の接頭詞deにて荷を担わない=働かない、の関係は、働く者と働かない者の階級の確立を前提とする。したがってsportの語源はこの制度よりも遥か以前に求めるべきである。語源にspore=種子・胚種・胞子を求める見解に与する。種子が発揮する過剰なエネルギーはなんら利用価値のない奢侈そして蕩尽や消尽に通じる。もとよりsportは無色透明だからこそ、あらゆる価値や意味、目的と目論見を取り込む。絶対的な地位を持ち得ず、相対的な地位にとどまる教育には絶好の獲物である。果たして身体教育はスポーツにいかなる意味や価値を注ぎ込んできたのか。敗戦ひと月も経ずに許容された野球、運動会の仕掛け、徒競走にみる一望監視装置などに規律化した身体を求め、体育社会学の専門性を俯瞰する。