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[スポーツ文化-C-01] 秩父・西多摩地域における民俗芸能の持続可能なかかわりの拡大の可能性(人)
歌舞伎の式三番・番立との関係が推察される三番叟を手がかりとして
1.はじめに 三番叟は、事の始まりには三番叟と言われ、芸能のみならず玩具・美術品等、多くの人に愛されてきた。歌舞伎の式三番は、江戸時代に江戸では太夫元らが元日や顔見世の初日に、それ以外の日は下立役という下級の役者が毎早朝に演じた。前者は江戸末期頃には廃れ、後者は明治中年頃迄、頭取が三番叟のもみの段のみを演じて制度を繋ぎ、それは地方でも演じられていた。本研究は今まで、小鹿野歌舞伎の三番叟は、江戸若しくは東京の中央の舞台で演じられていたもみの段のみの番立である事、番立には型と変化がある事、等を報告してきた。小鹿野町の属する秩父とそこに繋がる西多摩地域には多くの民俗芸能が存在するが、元来の人口流出・高齢化に加え感染症の問題は芸能団体に大きなダメージを齎した。今そこから再出発するに際し、歌舞伎の式三番と番立との関係が推測される三番叟を手掛かりとして新たな価値・意義を探り、継続可能なかかわりの拡張への可能性を考えたい。2.対象と方法 小鹿野歌舞伎の三番叟に関しては主に文献調査により、檜原村数馬馬鹿面囃子の三番叟と檜原村小沢の式三番については、2017-2019に収取していた各種資料等により新たな知見を探った。3.結果と考察 国立劇場で上演された番立には、音羽屋の坂東八重之助と尾上菊十郎が関与しており、小鹿野歌舞伎の祖である音羽屋坂東彦五郎と、音羽屋の坂東即ち坂東彦三郎との関係が示唆された。小沢の式三番の三番叟は暴れさんばで、上演時の会場の様子は、関根只誠が東都歌舞伎故実で、誠に勇ま敷、と記した中村座での式三番の上演風景を彷彿とさせた。数馬馬鹿面囃子の三番叟は、神奈川県の歌舞伎の師匠から教わったもので番立と思われたが、舞台上の移動は小鹿野歌舞伎の四角形ではなく、翁の大事に記された天地人を示す三角形と同様であった。これらの結果を持続可能な方法でかかわりを拡張させる一助にできればと思われた。