[02社-レクチャー-1] 武道家からみた学校体育と体育社会学の可能性
<演者略歴>
1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。神戸女学院大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞を受賞。『レヴィナスと愛の現象学』、『コモンの再生』など著書多数。
1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。神戸女学院大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞を受賞。『レヴィナスと愛の現象学』、『コモンの再生』など著書多数。
学校体育と武道はあまり相性が良くない。学校体育はその性質上同学齢集団内部で、勝敗や技術の巧拙についての相対評価を行わなければならないが、武道は本来修行であり、修行というのは他人と相対的な優劣を競うものではないからである。
むろん修行にも目標はあるが、それは決して達することのできない無限消失点である(「大悟解脱」とか「天下無敵」に達することのできる人間は現実にはほとんど存在しない)。
到達不能の目標を掲げながらも修行が成り立つのは「先達」がいるからである。修行者は「先達」の背中を見ながら、ひたすらその後を進むが、自分が全行程のどこにいるのか、この修行がいつ終わるのかを知らない。ふつうは修行の途中で、何一つ達成しないままにその生涯を終えるが、それは別に悔やむべきことではない。
この開放性と無窮性が修行としての武道の骨法である。修行は教育法としてきわめてすぐれていることは確かだが、学校教育に適応することが可能であるかどうかは即答し難い。
むろん修行にも目標はあるが、それは決して達することのできない無限消失点である(「大悟解脱」とか「天下無敵」に達することのできる人間は現実にはほとんど存在しない)。
到達不能の目標を掲げながらも修行が成り立つのは「先達」がいるからである。修行者は「先達」の背中を見ながら、ひたすらその後を進むが、自分が全行程のどこにいるのか、この修行がいつ終わるのかを知らない。ふつうは修行の途中で、何一つ達成しないままにその生涯を終えるが、それは別に悔やむべきことではない。
この開放性と無窮性が修行としての武道の骨法である。修行は教育法としてきわめてすぐれていることは確かだが、学校教育に適応することが可能であるかどうかは即答し難い。