15:33 〜 15:53
[12人-口-08] 地域ゆかりの人物に由来するスポーツ・イベントの文化的価値と可能性
「中馬野球大会」「の・ボール大会」を追って
本研究では、地域ゆかりの人物に由来するスポーツ・イベントとして、「中馬野球大会」と「の・ボール大会」という野球の定期交流戦に着目し、現地調査および大会運営者・選手へのアンケート・インタビュー調査,資料・情報収集の分析結果を通して、地域に固有のスポーツ・イベントの文化資源としての意義と可能性について考察することを目的とした。
「中馬野球大会」と「の・ボール大会」の名称は、それぞれ、ベースボールを「野球」と訳し日本初の野球専門書『野球』(1897)の著者として知られる中馬庚、野球を好み野球を詠んだ俳句や短歌を遺し、幼名に因んで「野球」(「のぼーる」と読ませる)という雅号をもっていたことでも知られる正岡子規に由来する。この定期交流戦は、中馬が現在の徳島県立脇町高等学校の前身である脇町中学校の校長を務めていたことから、同高校野球部OBによって徳島の地で開催される場合は「中馬野球大会」、現在の愛媛県立松山東高等学校の前身である松山中学校に子規が在籍していたことから、同高校野球部OBによって松山の地で開催される場合は「の・ボール大会」として、毎年1回交互に開催されてきた。大会では、日本の野球史に多大な足跡を遺した中馬と子規、そして往時の野球文化に思いを馳せながら、両チームの交流が深められている。
試合は、子規らがプレイを楽しんでいた明治20年頃のルール(「の・ボール野球」)に基づいて行われ、また用具やユニフォーム(衣装)も可能な限り当時のものに近づけるなど、固有の文化的特徴と風情を有する。しかしながら、それを継承する両チームの選手やスタッフは高齢化している。
そこで、現代の野球とは異なる当時の野球文化を体験できる参加型イベントとして野球ツーリズムを展開させるなど、これらの大会が、プログラムを再考することによって、それぞれの地域の文化資源として根づくことが可能であると考える。
「中馬野球大会」と「の・ボール大会」の名称は、それぞれ、ベースボールを「野球」と訳し日本初の野球専門書『野球』(1897)の著者として知られる中馬庚、野球を好み野球を詠んだ俳句や短歌を遺し、幼名に因んで「野球」(「のぼーる」と読ませる)という雅号をもっていたことでも知られる正岡子規に由来する。この定期交流戦は、中馬が現在の徳島県立脇町高等学校の前身である脇町中学校の校長を務めていたことから、同高校野球部OBによって徳島の地で開催される場合は「中馬野球大会」、現在の愛媛県立松山東高等学校の前身である松山中学校に子規が在籍していたことから、同高校野球部OBによって松山の地で開催される場合は「の・ボール大会」として、毎年1回交互に開催されてきた。大会では、日本の野球史に多大な足跡を遺した中馬と子規、そして往時の野球文化に思いを馳せながら、両チームの交流が深められている。
試合は、子規らがプレイを楽しんでいた明治20年頃のルール(「の・ボール野球」)に基づいて行われ、また用具やユニフォーム(衣装)も可能な限り当時のものに近づけるなど、固有の文化的特徴と風情を有する。しかしながら、それを継承する両チームの選手やスタッフは高齢化している。
そこで、現代の野球とは異なる当時の野球文化を体験できる参加型イベントとして野球ツーリズムを展開させるなど、これらの大会が、プログラムを再考することによって、それぞれの地域の文化資源として根づくことが可能であると考える。