10:16 AM - 10:31 AM
[11教-口-02] ジェンダー平等社会における学校体育の在り方に関する研究
それは「ジェンダー平等な体育」か、あるいは、「男女平等な体育か」
「ジェンダー最後の砦」と言われたスポーツ・体育領域でも、オリンピックなどの高度な競技会における、一定基準をクリアしたトランスジェンダー女性(MtF)の参加の容認や、また、学校体育における男女共修・共習といった変化がみられる。本研究者は、長らく「体育・スポーツとジェンダー」に関する研究に従事しており、特に学校体育については、中学校期と高等学校期の在り方に焦点を絞り、質的また量的データを検討し、様々な角度から報告をしてきた。
上記の研究の過程において、学校現場の教職員との対話、また、「学校体育とジェンダー」に関する学会等での学際的な場においても、「ジェンダー」を「男女」と読み替えてしまう「誤解(失敗)」に陥ってしまう様子を、残念ながら、少なからず確認してきた。さらに、現在を生きる大学生からの報告からは、未だ、「男女別修体育」が少なからず横行している。さらには、教員が「ジェンダー平等な体育」を標榜していながら、その実は、生徒達を戸籍上の「女性」か「男性」に二分し、「性別二元性(男女二元論)の体育」が「当たり前」のこととして実践され、「女性」は「男性」に比べて、体育、スポーツ場面で劣っているとの錯覚を植え付けかねない、いわば、ジェンダー、バイアスを深めることに繋がる体育授業の危うさも散見できる。
我が国においても、様々な領域で性別二元性からの脱却を希求し、その実現に向けての、研究や実践の蓄積がされてきている。しかし、以上のように、スポーツ・体育は、やはり最後まで、ジェンダー平等の獲得に失敗しており、歪んだ形での「男女平等」を追求(追究)しているように、本研究者にはみえる。
本研究では、現在、我が国における喫緊の課題である「学校体育におけるジェンダー平等」を、その理念から検討し、真に求められている「ジェンダー平等な体育」の在り方について、質的、量的データを紹介しながら論じることを試みる。
上記の研究の過程において、学校現場の教職員との対話、また、「学校体育とジェンダー」に関する学会等での学際的な場においても、「ジェンダー」を「男女」と読み替えてしまう「誤解(失敗)」に陥ってしまう様子を、残念ながら、少なからず確認してきた。さらに、現在を生きる大学生からの報告からは、未だ、「男女別修体育」が少なからず横行している。さらには、教員が「ジェンダー平等な体育」を標榜していながら、その実は、生徒達を戸籍上の「女性」か「男性」に二分し、「性別二元性(男女二元論)の体育」が「当たり前」のこととして実践され、「女性」は「男性」に比べて、体育、スポーツ場面で劣っているとの錯覚を植え付けかねない、いわば、ジェンダー、バイアスを深めることに繋がる体育授業の危うさも散見できる。
我が国においても、様々な領域で性別二元性からの脱却を希求し、その実現に向けての、研究や実践の蓄積がされてきている。しかし、以上のように、スポーツ・体育は、やはり最後まで、ジェンダー平等の獲得に失敗しており、歪んだ形での「男女平等」を追求(追究)しているように、本研究者にはみえる。
本研究では、現在、我が国における喫緊の課題である「学校体育におけるジェンダー平等」を、その理念から検討し、真に求められている「ジェンダー平等な体育」の在り方について、質的、量的データを紹介しながら論じることを試みる。