Seismological Society of Japan Fall Meeting

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Poster session (Sept. 18th)

General session » S10. Active Faults, Historical Earthquakes

S10P

Wed. Sep 18, 2019 1:00 PM - 2:30 PM ROOM P (International Conference Halls II and III)

1:00 PM - 2:30 PM

[S10P-01] Compiling descriptions on tsunami accompanied with the 1914 Sakurajima earthquake

*Reiji KOBAYASHI1 (1. Graduate school of science and engineering, Kagoshima University)

1. はじめに
1914年1月12日桜島大正噴火と呼ばれる噴火が継続している中、18時30分頃、マグニチュード(M)7.1の地震(以降、1914年桜島地震と呼ぶ)が発生した[例えば、今村 (1920),Omori (1922)、阿部 (1981)]。震源はOmori (1922)、Gutenberg and Richter (1954)、宇津 (1979)、阿部 (1981)、緒方・他 (2016)によって推定されている。Gutenberg and Richter (1954)は、他の震源に比べ大きく東に外れている。他の研究の震央は桜島の西から南の海岸付近、または海域に位置している。

この地震では、津波も観測されている。このことから、震源断層は海域に存在していると考えられる。震源断層についてはまだよく分かっていない。M7.1であれば、地表面や海底面に震源断層が到達していてもおかしくない。しかし、地表面や海底面に現れたという報告はない。物理探査で見つかったという報告もない。また余震分布も不明である。このあたりでは、活断層と推定されている断層もない。

鹿児島市街地での震度は最大で6弱~6強と推定される(小林・他, 2017, JpGU)。震源が鹿児島市街地に近く、M7.1とされるわりに、この震度は小さい。その原因の候補の1つとして、震源付近では地震波の放射が弱く、震源から離れた場所で地震波の放射が強い、ということが挙げられる。

震源断層の位置についてなんらかの拘束条件が得られることを期待して、本研究では、さまざまな文献における津波に関する記述を集めることにした。この過程で、疑問点が出てきた。本発表では、これまで集められた記述の整理と、そこから推察できることや疑問点について考察を行う。

2. 津波の記述の例
すべてを取り上げることができないので、代表的なものを4つ挙げる。

・気象要覧臨時増刊「桜島山噴火概況報告」(長谷川, 1914):「爆発ニ伴ヒ津浪ハ起コラサリシモノノ如シ、只十二日午後六時二十九分ノ地震ニ際シ小津浪ヲ伴ヒタリ。波止場ニ於テ地震ト同時ニ水ノ往来ヘ上リタル所アリ此時刻ニ船中ニ居リタル船頭ノ話ニヨレハ小ナル波起コリテ二十分程度経テ更ニ大ナル波二回来レリト云フ。」

・「大正二年櫻島大爆震記」(鹿兒嶋新聞記者十餘名共纂, 1914):「折柄水上警察署下海岸には、震動の為め大波寄せ来り、岸岐の敷石開いて石畳海中に陥入せんかと危ぶましめぬ。然り大波は石段階上に襲来し、石段階に延長ある著しき亀裂生じぬ。尚ほ當時田之浦附近に在りし人の談に徴するに、確かに海波は三段を形成して陸岸に襲来せりと。又稲荷川筋の避難船は大波の爲め破壊せるもあり、かつ海上航行中の滊船は殆んど顚覆せしやに感じたりと。」

・「姶良町郷土史 平成7年10月増補改訂版」(姶良町, 1995):「大正三年一月一二日、突如桜島爆発が起こり、続発する大地震のために大津波が襲来して、さしもの丈夫な堤防もたちまち決壊し、今までの塩田は一瞬にして一面の海と化し、その惨状は想像もできないありさまであった。」

・「加治木町郷土史」 (加治木町, 1918):「大正三年櫻島爆発の後潮水激増を来せしが(後略)」

3. 考察
先の3つの記述から、鹿児島市沿岸からその北にある姶良町の沿岸にかけて、船が壊れたり、堤防が決壊するような津波が襲ったことが分かる。ただし、姶良町の塩田で一面の海と化したのは、マグマだまりの縮小に伴う地盤沈降の影響もあるのではないかと思われる。鹿児島湾北岸に面する加治木町においては、爆発の後潮水激増とある。これは、地震の後と明記していないことと、津波と表現されてないことから、地盤沈下によるものである可能性がある。もしそうだとすれば、加治木町では顕著な津波がなかった可能性がある。

桜島と薩摩半島の間と、桜島と大隅半島の間は、海が狭くなっている(噴火後しばらくのちに溶岩によって桜島と大隅半島がつながった)。津波が桜島より南で発生した場合、桜島と薩摩半島の間を通って姶良町に達したときに、堤防を壊すほどの勢いがあるのか、を確かめる必要があるだろう。津波が桜島より北で発生した場合、加治木町で顕著な津波がなかった可能性があるのかを確かめる必要がある。

長谷川 (1914)において、小さな津波のあと、20分後に大きな津波が2回きたことが述べられている。また「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1914 桜島噴火報告書」(中央防災会議・災害教訓の継承に関する専門調査会, 2011)では地震発生の1時間後に小規模な津波が発生したと書かれている。これについてはオリジナルの報告を探しているところである。いずれにしても、地震から20分~1時間後に津波が襲っていることになる。これについて考えられる原因の候補は2つある。1つめの候補は、津波の第1波が小さく、その後の第2波、第3波、と続く波のうち、20分~1時間後の波が大きかった可能性である。内湾特有の固有振動も関係しているかもしれない。2つめの候補は、本震発生後、余震などで海底地滑りが誘発された可能性である。2つのうちどちらが適切であるかは今後の検証する必要がある。