4:00 PM - 5:30 PM
[S10P-03] Characteristics of Building Damage and Factors of Human Damage in the 1830 Bunsei Kyoto Earthquake
文政十三年七月二日(グレゴリオ暦1830年8月19日)に発生した文政京都地震は,M6.5±0.2とされる内陸地震で,愛宕山付近が震央と考えられる.大邑(2019)では震央から離れた京都盆地東縁部に人家の倒壊が多いことを指摘し,盆地東縁を限る桃山断層の影響および,1788年の天明大火で焼失を免れた古い建物郡に被害が集中した可能性を指摘した.
一方,分析史料を限定していたこともあり,被害の集中を示す根拠となる記録の数が少なく,その信憑性にも疑問が残る状況であった.そこで本研究では史料の分析対象を見直して,盆地東縁部の被害状況を記す記録を見出し,これを検討することとした.また同時に人家以外の建物被害の状況も再確認し,建物被害と関係が深いと考えられる人的被害の発生要因についても検討した.
本地震では土蔵の被害が大きく,人家の被害はこれに比して少なかったとされている[宇佐美・他(2013)].洛中で無事な土蔵は少なく,人々が逃げようとした所に落ちてきた鉢巻(土蔵の上部の名称)や土蔵の庇,瓦に当たって即死・負傷したとする記録が多数みられる.また「土蔵別て当りきびしく,元来貴地とちがひ火災稀なる土地故に,自然土蔵の普請抔麁末成故に候哉,十に八,九は壁土を不残ふるひ落し候て,鳥籠のごとく成たるが多く候よし,家居は倒候処,千軒が一軒にも不当よし,損じ候は十軒が十軒とも、大小破損せざるはなし」(「兎園小説拾遺」)と,土蔵の8~9割に被害が発生したのに対し,人家の倒壊は非常に少なかったとの記録がある.その他に「怪我人死人も,京中にて凡百七八十人計と申事に御座候,多くは石燈龍に当り,又は蔵の下に相成,互に押れ横死致し,怪我人は中々数相知不申由」(「宝暦現来集」巻之十九)との記録もあり,石灯籠の倒壊など人的被害は建物被害以外の要因でも発生していた.
このように人家の倒壊被害が少なかったと推測される状況においても,局所的に人家の倒壊が集中する地域が存在する.その中でも京都盆地東縁部の伏見街道では,一ノ橋(現・京都市東山区本町10丁目付近)から方広寺前までの間などで多くの人家が倒壊したとの記録がある(「京都地震実録」飛脚小和田屋書状).今回新たに同様の記録2件を検討した.ひとつは「視聴草(民基々郡散)三集之十」所収の「洛陽よりのふみ宛所なし七月十九日認」である.これによると「一,町家にて家立並故か損すくなく候得とも又筋により家の倒れ候事も夥しく御座候,伏見稲荷より五条迄家の壊れ三四十軒,半くたけハ数しれぬと申候、是にて知るへし」とあり,伏見稲荷から五条までの間の伏見街道と思われる区間で人家に被害が集中した.“町家は立ち並んでいるためか被害が少ないが,筋によっては倒壊する”と述べていることも興味深い.
さらに京都市歴史資料館所蔵の鳩居堂文書「地震状 下書」(『新収日本地震史料』続補遺別巻所収)には「伏見海道九丁目并五条大宮町古家数十軒将基たほしニ押崩れ申候」とあり,現・京都市東山区本町9丁目付近で古い家が将棋倒しに倒壊したとある.これは先述の一ノ橋に北接する地域である.また同史料には「古家の天明火災ニ残りし洛外端々の麁家多分崩れ申候,此為ニ老人抔押うたれ相果申候,折節行水時故裸身の処へ空より土蔵の大輪砕塊となりて土の大かたまり落て即死いたし候,家根の瓦落て頭上ゟあたり血を出し候者夥敷候」とあり,天明の大火で焼け残った古い建物郡に被害が発生したと述べている.
以上のように,数点の異なる史料に類似した記述があることから,盆地東縁部の伏見街道に沿った地域で人家の集中的倒壊が発生したと考えて良いように思われる.当時は街道沿いに細長く市街地が形成されており,被害分布が街の広がりに制約を受けていると考えることもできる.しかしより震央に近い洛中であっても人家の倒壊は少ないという状況を考えると,単純に市街地の広がりのみで被害分布を説明することは難しい.人家の集中倒壊の原因が盆地端部構造による地震波の増幅といった自然的要因なのか,大火を免れた古く耐震性の低い建物郡に被害が集中したという社会的要因であるのか,もしくはその両方が重層的に関係しているのかの検討は今後の課題である.
一方,分析史料を限定していたこともあり,被害の集中を示す根拠となる記録の数が少なく,その信憑性にも疑問が残る状況であった.そこで本研究では史料の分析対象を見直して,盆地東縁部の被害状況を記す記録を見出し,これを検討することとした.また同時に人家以外の建物被害の状況も再確認し,建物被害と関係が深いと考えられる人的被害の発生要因についても検討した.
本地震では土蔵の被害が大きく,人家の被害はこれに比して少なかったとされている[宇佐美・他(2013)].洛中で無事な土蔵は少なく,人々が逃げようとした所に落ちてきた鉢巻(土蔵の上部の名称)や土蔵の庇,瓦に当たって即死・負傷したとする記録が多数みられる.また「土蔵別て当りきびしく,元来貴地とちがひ火災稀なる土地故に,自然土蔵の普請抔麁末成故に候哉,十に八,九は壁土を不残ふるひ落し候て,鳥籠のごとく成たるが多く候よし,家居は倒候処,千軒が一軒にも不当よし,損じ候は十軒が十軒とも、大小破損せざるはなし」(「兎園小説拾遺」)と,土蔵の8~9割に被害が発生したのに対し,人家の倒壊は非常に少なかったとの記録がある.その他に「怪我人死人も,京中にて凡百七八十人計と申事に御座候,多くは石燈龍に当り,又は蔵の下に相成,互に押れ横死致し,怪我人は中々数相知不申由」(「宝暦現来集」巻之十九)との記録もあり,石灯籠の倒壊など人的被害は建物被害以外の要因でも発生していた.
このように人家の倒壊被害が少なかったと推測される状況においても,局所的に人家の倒壊が集中する地域が存在する.その中でも京都盆地東縁部の伏見街道では,一ノ橋(現・京都市東山区本町10丁目付近)から方広寺前までの間などで多くの人家が倒壊したとの記録がある(「京都地震実録」飛脚小和田屋書状).今回新たに同様の記録2件を検討した.ひとつは「視聴草(民基々郡散)三集之十」所収の「洛陽よりのふみ宛所なし七月十九日認」である.これによると「一,町家にて家立並故か損すくなく候得とも又筋により家の倒れ候事も夥しく御座候,伏見稲荷より五条迄家の壊れ三四十軒,半くたけハ数しれぬと申候、是にて知るへし」とあり,伏見稲荷から五条までの間の伏見街道と思われる区間で人家に被害が集中した.“町家は立ち並んでいるためか被害が少ないが,筋によっては倒壊する”と述べていることも興味深い.
さらに京都市歴史資料館所蔵の鳩居堂文書「地震状 下書」(『新収日本地震史料』続補遺別巻所収)には「伏見海道九丁目并五条大宮町古家数十軒将基たほしニ押崩れ申候」とあり,現・京都市東山区本町9丁目付近で古い家が将棋倒しに倒壊したとある.これは先述の一ノ橋に北接する地域である.また同史料には「古家の天明火災ニ残りし洛外端々の麁家多分崩れ申候,此為ニ老人抔押うたれ相果申候,折節行水時故裸身の処へ空より土蔵の大輪砕塊となりて土の大かたまり落て即死いたし候,家根の瓦落て頭上ゟあたり血を出し候者夥敷候」とあり,天明の大火で焼け残った古い建物郡に被害が発生したと述べている.
以上のように,数点の異なる史料に類似した記述があることから,盆地東縁部の伏見街道に沿った地域で人家の集中的倒壊が発生したと考えて良いように思われる.当時は街道沿いに細長く市街地が形成されており,被害分布が街の広がりに制約を受けていると考えることもできる.しかしより震央に近い洛中であっても人家の倒壊は少ないという状況を考えると,単純に市街地の広がりのみで被害分布を説明することは難しい.人家の集中倒壊の原因が盆地端部構造による地震波の増幅といった自然的要因なのか,大火を免れた古く耐震性の低い建物郡に被害が集中したという社会的要因であるのか,もしくはその両方が重層的に関係しているのかの検討は今後の課題である.