16:00 〜 17:30
[S10P-05] 被害地震でない安政五年十二月八日(1859年1月11日)の岩槻の地震
既刊地震史料集の所収史料によれば,安政六年二月五日(1859年3月9日)に,先だっての領内の地震(「先達而領分地震」)によって岩槻城の本丸櫓や多門その他が大破(「居城本丸櫓、多門、其外所々大破」)したので借財を幕府に願い出ていた岩槻藩に対して,金千両の貸下が承諾されたとある.宇佐美(1987)は,「先達而領分地震」を安政六年二月五日の直近に発生した地震と解釈し,安政五年十二月八日(1859年1月11日)の岩槻付近を震央とするM≒6.0の地震であるとした(図).したがって,この地震は,“1859年岩槻の地震”と呼称されることが多い.また,文部科学省研究開発局・東京大学地震研究所(2015)は,茨城県南西部の深さ約50 kmを震源とするM6.0の地震としている(図).宇佐美(2010)は,岩槻城の被害から岩槻での震度を5強と推定している.しかしながら,この地震では,埼玉県東部を中心として広範囲に,“大地震”,“強地震”という強い揺れが記録されているが,岩槻周辺あるいは推定された震央付近では,強い揺れやそれによる被害の記録は他に確認されていない(図).例えば,岩槻城の南東約3 kmの黒谷村杉崎家の「万代記録帳」には,この地震に関する記述がない.また,『岩槻市史』,『新編 埼玉県史』などの岩槻とその周辺における自治体史にも,この地震に関する記載は一切みられない.
一方,上記の自治体史の大岡氏時代における岩槻藩政史の章には,「安政二年(一八五五)の地震で岩槻城の本丸櫓や城門などを破損した。この修復資金の欠如から幕府に拝借金を願い出たが、幕府は、国事多難な折から容易にこの願いをとりあげようとせず、安政四年金千両の貸下を許した。」と記載されており,『新編 埼玉県史』では「諸案文写」という史料が引用されている.貸下を許されたのは「安政四年」と記載されているが,『続徳川実紀』,『武州岩槻藩大岡家史料』(大村・原,1975)などには,安政四年に該当する記述がない.したがって,上記の「安政四年」は誤りであり,安政六年二月五日に貸下が許されたと考えられる.すなわち,前述の「先達而領分地震」は1855年安政江戸地震であり,岩槻城の被害はこの地震によると考えられる.そこで本研究では,埼玉県立文書館に所蔵されている「諸案文写」の調査を行った.なお,「諸案文写」は既刊地震史料集には未所収である.
「諸案文写」(埼玉郡岩槻町河内正家文書16〜18)は,天保十五年(1844年)~明治四年(1871年)にわたる岩槻藩の公文書や書状の写しをまとめた史料であり,記主は,岩槻藩主大岡家の家臣で江戸藩邸において右筆や勘定方などを勤めていた河内惣次郎豊房である.岩槻藩による借財願いの書状は,「公儀江上ゟ願書之写左之通」(上様より御公儀への願書の写しは左の通り)として書写されている.書状の日付は,安政二年十月廿五日(1855年12月4日)で,安政二年十月二日(1855年11月11日)の安政江戸地震から約20日後に書かれたことが分かる.書状では,安政江戸地震による岩槻城や城下町などの被害(岩槻城の土居,塀,櫓門,住居,本丸,二ノ丸,三ノ丸の役所,土蔵その他まで潰れ破損した;城下や藩内では潰家,破損や大破した家が夥しかった;水除け堤防の数ヶ所が決壊し,数ヶ所の橋が破損した;地割れが生じ,砂などもが噴き出して往来に差し支えが生じた;街道や作場道に地割れが数十ヶ所できて,田畑の被害も多かった;日光御成道も橋が被害を受け,岩槻宿では,本陣や脇本陣を始めとする宿が大破したので,通行者の宿泊に差し支えが生じた)が記述されている.そして,岩槻と江戸藩邸の被害に対する修復費用や異国船に備えた海防費用により財政が厳しくなったため,金三千両の借財を願い出ている.一方,安政五年十二月八日の地震後には,同様の借財願いの写しなどの史料記述は一切みられない.
したがって,安政江戸地震による岩槻城その他の被害の修復費用などに当てるために三千両の借財を願い出た岩槻藩に対して,安政六年二月五日に,千両の貸下が認められたことが分かる.そして,安政五年十二月八日の地震は,岩槻や他の地域にも被害を与えていないために被害地震ではなく,この地震を“1859年岩槻の地震”と呼称すべきでない.以上のことは,黒谷村杉崎家の「万代記録帳」を始めとする他の史料に,安政五年十二月八日の地震による岩槻の被害を示唆する記述が確認されていないことからも支持される.「諸案文写」の記述から,安政江戸地震によるこれまで知られていなかった岩槻の被害が明らかになり,その震度は宇佐美(2010)による5強よりも大きい可能性(6弱〜6強)がある.
一方,上記の自治体史の大岡氏時代における岩槻藩政史の章には,「安政二年(一八五五)の地震で岩槻城の本丸櫓や城門などを破損した。この修復資金の欠如から幕府に拝借金を願い出たが、幕府は、国事多難な折から容易にこの願いをとりあげようとせず、安政四年金千両の貸下を許した。」と記載されており,『新編 埼玉県史』では「諸案文写」という史料が引用されている.貸下を許されたのは「安政四年」と記載されているが,『続徳川実紀』,『武州岩槻藩大岡家史料』(大村・原,1975)などには,安政四年に該当する記述がない.したがって,上記の「安政四年」は誤りであり,安政六年二月五日に貸下が許されたと考えられる.すなわち,前述の「先達而領分地震」は1855年安政江戸地震であり,岩槻城の被害はこの地震によると考えられる.そこで本研究では,埼玉県立文書館に所蔵されている「諸案文写」の調査を行った.なお,「諸案文写」は既刊地震史料集には未所収である.
「諸案文写」(埼玉郡岩槻町河内正家文書16〜18)は,天保十五年(1844年)~明治四年(1871年)にわたる岩槻藩の公文書や書状の写しをまとめた史料であり,記主は,岩槻藩主大岡家の家臣で江戸藩邸において右筆や勘定方などを勤めていた河内惣次郎豊房である.岩槻藩による借財願いの書状は,「公儀江上ゟ願書之写左之通」(上様より御公儀への願書の写しは左の通り)として書写されている.書状の日付は,安政二年十月廿五日(1855年12月4日)で,安政二年十月二日(1855年11月11日)の安政江戸地震から約20日後に書かれたことが分かる.書状では,安政江戸地震による岩槻城や城下町などの被害(岩槻城の土居,塀,櫓門,住居,本丸,二ノ丸,三ノ丸の役所,土蔵その他まで潰れ破損した;城下や藩内では潰家,破損や大破した家が夥しかった;水除け堤防の数ヶ所が決壊し,数ヶ所の橋が破損した;地割れが生じ,砂などもが噴き出して往来に差し支えが生じた;街道や作場道に地割れが数十ヶ所できて,田畑の被害も多かった;日光御成道も橋が被害を受け,岩槻宿では,本陣や脇本陣を始めとする宿が大破したので,通行者の宿泊に差し支えが生じた)が記述されている.そして,岩槻と江戸藩邸の被害に対する修復費用や異国船に備えた海防費用により財政が厳しくなったため,金三千両の借財を願い出ている.一方,安政五年十二月八日の地震後には,同様の借財願いの写しなどの史料記述は一切みられない.
したがって,安政江戸地震による岩槻城その他の被害の修復費用などに当てるために三千両の借財を願い出た岩槻藩に対して,安政六年二月五日に,千両の貸下が認められたことが分かる.そして,安政五年十二月八日の地震は,岩槻や他の地域にも被害を与えていないために被害地震ではなく,この地震を“1859年岩槻の地震”と呼称すべきでない.以上のことは,黒谷村杉崎家の「万代記録帳」を始めとする他の史料に,安政五年十二月八日の地震による岩槻の被害を示唆する記述が確認されていないことからも支持される.「諸案文写」の記述から,安政江戸地震によるこれまで知られていなかった岩槻の被害が明らかになり,その震度は宇佐美(2010)による5強よりも大きい可能性(6弱〜6強)がある.