1:30 PM - 1:45 PM
[S10-01] The Shimangoku Earthquake and its Seismo Tectonic Bearings Connected with the Shinano River Seismic Zone
1. はじめに
河内・大木(1996)は村上領・新発田領関係記録,徳川実紀及び各地郷土史等を整理して,地震の発生が寛文十年(1670年)五月五日であることを明らかにした.また当時の村上領主榊原家江戸屋敷日記の寛文十年五月十四日と同八月十日の条にある四万石という語句が,それ迄理解されていた一般名詞(石高)ではなく,正しくは固有名詞(領地の通称)であるとした.そして震源域を当時四万石と呼ばれていた旧西蒲原郡東部地域に修正し,この地震を「西蒲原地震」と呼んだ.その後河内(2008)は,推定震源域の旧西蒲原郡の町村(黒埼町,潟東村,月潟村,味方村,中之口村など)が平成合併により西蒲原郡から別れ,唯一西蒲原郡を冠した弥彦村が震源域ではないため,混乱を避ける意味で「四万石地震」あるいは「西蒲原(四万石)地震」と呼称の変更を提案した.本論では四万石という用語の意味を再確認し併せて河内・大木(1996)の発表後に発生した中越・中越沖地震との関連について述べる.
2.地域名「四万石領」を記した『折たく柴の記』
河内(2008)は,新井白石『折たく柴の記』の越後国村上領百姓濫訴事件を記述した正徳元年(1711年)の文中に四万石領という記述があることを指摘した.江戸前期の越後村上領は領主の入れ替わりが激しく,家格に応じて変更された.榊原家の前の領主の松平家が慶安二年に入封する際,幕府はそれまでの11万石に加えて天領であった旧三島郡・旧西蒲原郡の一部約4万石分を加えて15万石格の松平家(榊原家も15万石)に充てた.そのため,領民は新たに村上領となったこの地域を「四万石領」と呼ぶようになった.
『折たく柴の記』の記述は次のようである.
六十年の前,松平大和守直基村上の城を賜りし時,三島蒲原等
の郡にして 四万石の地を加らる.これよりして土俗其地を称
して四万石領とはいひけり.
ここでは60年前〔正確には62年前の1649年(慶安二年)〕の領地替えから使われるようになったと記されている.
百姓濫訴とは四万石の領民が村上領から天領へ戻ることを幕府に願い出た越訴である.騒動は獄死者まで出すに至ったが白石の意見書によりその後穏便に解決された,と『折りたく柴の記』にはある.このときの領主松平家(慶安とは別)は1717年に転封し,その後の領主(1720年まで間部家,以後幕末まで内藤家)は5万石格であったため,結果的に領民の希望通り四万石は天領に復してその呼称も消滅することになる.悲惨な過去は早く忘れたかったのだろうか.現在地元には地名も伝説も残っていない.
3.越後平野で発生した地震
四万石地震の震源域は「四万石領」のうちの中ノ口川流域と推定される.古記録による被害域とその158年後に発生する1828年三条地震の被害域を併せて検討すると,両者はおおむね平野の方向北東−南西に長円形に延び,二つの推定震源域は燕市付近で重なることがわかる.河内・大木(1996)はこれを同一地域で繰り返す固有地震とした.北方の粟島周辺海域では1762年佐渡沖,1833年庄内沖,1964年新潟,2019年新潟山形県境などが固有地震を形成する.長岡市周辺では明治以降1887年長岡,1927年関原,1961年長岡などの小規模(M5.5程度)の地震が固有地震を形成している.
4.信濃川地震帯のテクトニクス
信濃川地震帯とは大森房吉が1918年大町地震を調査する中で使った用語である.大森は松本−長野−新潟を結ぶ帯状の地域に被害地震が集中して発生していることを見出した.その後,今村明恒もこれを踏襲した.
ところが,坪井忠二(1967)は「地震の巣」という概念を示して「地震は三次元的に分布する.地震帯などという言葉は早く忘れてしまった方がいい」と断じた.はたしてそうであろうか.確かに坪井が調べた関東地方の微小地震活動では震源の線状配列は見られず球状形態の分布が確認できる.しかし,大森は微小地震や小規模地震を除外し,大・中規模の被害地震の震源域の配列をあえて二次元的に見たのである.
1670年四万石地震がこの地震帯に付け加えられたことの意義は大きい.その後,羽鳥(1990),河内(2000)によって1762年佐渡沖地震が佐渡北方ないし粟島周辺に修正され,さらに2004年中越地震,2007年中越沖地震,2019年新潟山形県境地震が発生し,新たに付け加わった.信濃川地震帯では坪井後の時代に益々その帯状的性質を明徴するに至っている.今日的には,地震分布の他に各種地殻変動の観測や地震の発震機構解などから,日本海東縁変動帯(例えば大竹ほか(2002)),新潟−神戸歪み集中帯(例えば鷺谷(2003))が提唱されており,信濃川地震帯はこの一部と見ることができる.日本海東縁のプレート境界は「衝突境界」として庄内沖から越後平野さらには長野,松本に至るまさに信濃川(千曲川〜犀川)流域に相当すると考えるべきであろう.
河内・大木(1996)は村上領・新発田領関係記録,徳川実紀及び各地郷土史等を整理して,地震の発生が寛文十年(1670年)五月五日であることを明らかにした.また当時の村上領主榊原家江戸屋敷日記の寛文十年五月十四日と同八月十日の条にある四万石という語句が,それ迄理解されていた一般名詞(石高)ではなく,正しくは固有名詞(領地の通称)であるとした.そして震源域を当時四万石と呼ばれていた旧西蒲原郡東部地域に修正し,この地震を「西蒲原地震」と呼んだ.その後河内(2008)は,推定震源域の旧西蒲原郡の町村(黒埼町,潟東村,月潟村,味方村,中之口村など)が平成合併により西蒲原郡から別れ,唯一西蒲原郡を冠した弥彦村が震源域ではないため,混乱を避ける意味で「四万石地震」あるいは「西蒲原(四万石)地震」と呼称の変更を提案した.本論では四万石という用語の意味を再確認し併せて河内・大木(1996)の発表後に発生した中越・中越沖地震との関連について述べる.
2.地域名「四万石領」を記した『折たく柴の記』
河内(2008)は,新井白石『折たく柴の記』の越後国村上領百姓濫訴事件を記述した正徳元年(1711年)の文中に四万石領という記述があることを指摘した.江戸前期の越後村上領は領主の入れ替わりが激しく,家格に応じて変更された.榊原家の前の領主の松平家が慶安二年に入封する際,幕府はそれまでの11万石に加えて天領であった旧三島郡・旧西蒲原郡の一部約4万石分を加えて15万石格の松平家(榊原家も15万石)に充てた.そのため,領民は新たに村上領となったこの地域を「四万石領」と呼ぶようになった.
『折たく柴の記』の記述は次のようである.
六十年の前,松平大和守直基村上の城を賜りし時,三島蒲原等
の郡にして 四万石の地を加らる.これよりして土俗其地を称
して四万石領とはいひけり.
ここでは60年前〔正確には62年前の1649年(慶安二年)〕の領地替えから使われるようになったと記されている.
百姓濫訴とは四万石の領民が村上領から天領へ戻ることを幕府に願い出た越訴である.騒動は獄死者まで出すに至ったが白石の意見書によりその後穏便に解決された,と『折りたく柴の記』にはある.このときの領主松平家(慶安とは別)は1717年に転封し,その後の領主(1720年まで間部家,以後幕末まで内藤家)は5万石格であったため,結果的に領民の希望通り四万石は天領に復してその呼称も消滅することになる.悲惨な過去は早く忘れたかったのだろうか.現在地元には地名も伝説も残っていない.
3.越後平野で発生した地震
四万石地震の震源域は「四万石領」のうちの中ノ口川流域と推定される.古記録による被害域とその158年後に発生する1828年三条地震の被害域を併せて検討すると,両者はおおむね平野の方向北東−南西に長円形に延び,二つの推定震源域は燕市付近で重なることがわかる.河内・大木(1996)はこれを同一地域で繰り返す固有地震とした.北方の粟島周辺海域では1762年佐渡沖,1833年庄内沖,1964年新潟,2019年新潟山形県境などが固有地震を形成する.長岡市周辺では明治以降1887年長岡,1927年関原,1961年長岡などの小規模(M5.5程度)の地震が固有地震を形成している.
4.信濃川地震帯のテクトニクス
信濃川地震帯とは大森房吉が1918年大町地震を調査する中で使った用語である.大森は松本−長野−新潟を結ぶ帯状の地域に被害地震が集中して発生していることを見出した.その後,今村明恒もこれを踏襲した.
ところが,坪井忠二(1967)は「地震の巣」という概念を示して「地震は三次元的に分布する.地震帯などという言葉は早く忘れてしまった方がいい」と断じた.はたしてそうであろうか.確かに坪井が調べた関東地方の微小地震活動では震源の線状配列は見られず球状形態の分布が確認できる.しかし,大森は微小地震や小規模地震を除外し,大・中規模の被害地震の震源域の配列をあえて二次元的に見たのである.
1670年四万石地震がこの地震帯に付け加えられたことの意義は大きい.その後,羽鳥(1990),河内(2000)によって1762年佐渡沖地震が佐渡北方ないし粟島周辺に修正され,さらに2004年中越地震,2007年中越沖地震,2019年新潟山形県境地震が発生し,新たに付け加わった.信濃川地震帯では坪井後の時代に益々その帯状的性質を明徴するに至っている.今日的には,地震分布の他に各種地殻変動の観測や地震の発震機構解などから,日本海東縁変動帯(例えば大竹ほか(2002)),新潟−神戸歪み集中帯(例えば鷺谷(2003))が提唱されており,信濃川地震帯はこの一部と見ることができる.日本海東縁のプレート境界は「衝突境界」として庄内沖から越後平野さらには長野,松本に至るまさに信濃川(千曲川〜犀川)流域に相当すると考えるべきであろう.