14:00 〜 14:15
[S10-03] 有感記録に基づく1802年享和佐渡小木地震の地震像の検討
享和二年十一月十五日(1802年12月9日)に発生した1802年享和佐渡小木地震(以下,佐渡小木地震または本地震)は,当時幕府領であった佐渡に甚大な被害を及ぼした地震である.佐渡奉行所の組頭からの被害報告に依る「佐州地震一件」(『一話一言』所収)に基づく検討から,特に当時の小木町村では家屋の被害が壊滅的であり,佐渡西部と同南西部の雑太郡と羽茂郡で村落の被害が大きかったとされる[矢田(2009)].一方,佐渡小木地震では,十五日の巳刻(午前9~11時頃)と未刻(午後1~3時頃)の2回地震があり,巳刻の地震でわずかに被害を生じた場所もあったが,未刻の地震の方が被害は甚大で,佐渡の西南海岸は隆起したとされている[宇佐美・他(2013)].本地震に関しては,佐渡だけでなく周辺の有感範囲を含めた震度分布図が作成されており[宇佐美編(2010),宇佐美・他(2013)],このような被害状況と震度分布に基づいて,佐渡小木地震の震央は佐渡南西部の北緯37.8°,東経138.35°に,規模はM=6.5~7.0と推定されている[宇佐美・他(2013)].なお,隆起海食台の海抜高度の測定から本地震による土地隆起の分布パターンが明らかにされており[太田・他(1976)],これらのデータ等に基づき断層モデルが推定されている[中村・他(2010),南雲・他(2011)].
既往研究で明らかにされているように,佐渡小木地震では震源域である佐渡南西部に建造物被害や地変が集中しており,対岸に位置する当時の越後国やその周辺地域では被害の記録は確認できない.そのため,佐渡小木地震の地震像について検討する際には,佐渡での被害発生場所の震度を推定するだけでなく,被害はないが揺れを感じた記録(有感記録)を収集・分析し,広範囲の有感記録に基づいて地震像を検討することも重要である.そこで本研究では,同時代史料に記されている佐渡小木地震における遠地での有感記録の内容を再検討し,広範囲の有感記録と近年構築された地震動予測式に基づく震度分布とを組み合わせることで,本地震の地震像について再検討した.
上記で述べたように,佐渡小木地震では巳刻と未刻に2回の地震があり,佐渡では未刻の地震で被害が大きかったとされる.有感記録の記述内容をみると,①佐渡から北東へ遠く離れた弘前城内(現青森県弘前市)で記された『弘前藩庁日記』には「十一月十五壬午日 曇 今暁寅刻より雨降、未刻頃少々地震、申之刻頃雨止」とあり,未刻の地震のみが記されている.②佐渡に比較的近い専福寺(現新潟県長岡市)で記された『諸事見聞雑記 天』には「十一月十四(五)日四ツ時分、中位之地震入申候、亦七ツ半時分地震、八ツ時分少々、十六日地震、十七日明六ツ頃少々、十八日夜八ツ頃三度入申候」とある.この記述から,四ツ時(巳刻)の中地震と八ツ時(未刻)の地震の双方を感じており,四ツ時の揺れの方が大きかったようである.③同様に佐渡に比較的近い宝蔵院(現新潟県妙高市)で記された『妙高山雲上寺宝蔵院日記』には「同日、一、今日昼四時頃、余程成ル地震、日之内ニ三度程入り、尤少き方ハ数度入り候事」とあり,四ツ時の余程の地震のみが記されている.④佐渡から南東へ離れた江戸市中の服部元雅居宅(現東京都港区)で記された『芙蕖館日記』には「(十一月)十五日 戊午 天気甚暖也、四ッ過余程長キ地震、八ッ時又少地震」とあり,四ツ時の余程長い地震と八ツ時の小地震の揺れが区別して記されている.
これらの有感記録から,③のように震源域の佐渡に近い場所での有感記録であっても,巳刻と未刻の2回の地震を区別して記録しているとは限らず,④のように佐渡から離れた場所であっても双方の地震を区別している場合もある.また,必ずしも後に発生した未刻の地震を大きく記している訳ではなく,②や④のように2回の地震を区別して記録している場合には,先に発生した巳刻の地震を大きく記しているものもある.このような巳刻と未刻の2回の地震に関する記述については,今後,本地震に関する同時代史料の有感記録を更に調査・収集して有感場所を増やしていくことで,何らかの特徴を見出せる可能性がある.
このような遠地で揺れを感じた場所について,様々な史資料を用いて可能な限り詳細に緯度・経度を特定し,佐渡での震度分布図だけでなく広域の震度分布図を作成した.また,本研究では予察的に宇佐美・他(2013)による震央を仮定し,様々なモーメントマグニチュード(Mw)に対して震度の距離減衰式(Matsu'ura et al., 2020)用いて予測震度分布図を作成した.そして,史料から推定された震度分布図と予測震度分布図との整合性について考察したところ,Mw6.75程度の場合に,震源域近傍ならびに広域の震度分布を概ね説明可能であることがわかった.
既往研究で明らかにされているように,佐渡小木地震では震源域である佐渡南西部に建造物被害や地変が集中しており,対岸に位置する当時の越後国やその周辺地域では被害の記録は確認できない.そのため,佐渡小木地震の地震像について検討する際には,佐渡での被害発生場所の震度を推定するだけでなく,被害はないが揺れを感じた記録(有感記録)を収集・分析し,広範囲の有感記録に基づいて地震像を検討することも重要である.そこで本研究では,同時代史料に記されている佐渡小木地震における遠地での有感記録の内容を再検討し,広範囲の有感記録と近年構築された地震動予測式に基づく震度分布とを組み合わせることで,本地震の地震像について再検討した.
上記で述べたように,佐渡小木地震では巳刻と未刻に2回の地震があり,佐渡では未刻の地震で被害が大きかったとされる.有感記録の記述内容をみると,①佐渡から北東へ遠く離れた弘前城内(現青森県弘前市)で記された『弘前藩庁日記』には「十一月十五壬午日 曇 今暁寅刻より雨降、未刻頃少々地震、申之刻頃雨止」とあり,未刻の地震のみが記されている.②佐渡に比較的近い専福寺(現新潟県長岡市)で記された『諸事見聞雑記 天』には「十一月十四(五)日四ツ時分、中位之地震入申候、亦七ツ半時分地震、八ツ時分少々、十六日地震、十七日明六ツ頃少々、十八日夜八ツ頃三度入申候」とある.この記述から,四ツ時(巳刻)の中地震と八ツ時(未刻)の地震の双方を感じており,四ツ時の揺れの方が大きかったようである.③同様に佐渡に比較的近い宝蔵院(現新潟県妙高市)で記された『妙高山雲上寺宝蔵院日記』には「同日、一、今日昼四時頃、余程成ル地震、日之内ニ三度程入り、尤少き方ハ数度入り候事」とあり,四ツ時の余程の地震のみが記されている.④佐渡から南東へ離れた江戸市中の服部元雅居宅(現東京都港区)で記された『芙蕖館日記』には「(十一月)十五日 戊午 天気甚暖也、四ッ過余程長キ地震、八ッ時又少地震」とあり,四ツ時の余程長い地震と八ツ時の小地震の揺れが区別して記されている.
これらの有感記録から,③のように震源域の佐渡に近い場所での有感記録であっても,巳刻と未刻の2回の地震を区別して記録しているとは限らず,④のように佐渡から離れた場所であっても双方の地震を区別している場合もある.また,必ずしも後に発生した未刻の地震を大きく記している訳ではなく,②や④のように2回の地震を区別して記録している場合には,先に発生した巳刻の地震を大きく記しているものもある.このような巳刻と未刻の2回の地震に関する記述については,今後,本地震に関する同時代史料の有感記録を更に調査・収集して有感場所を増やしていくことで,何らかの特徴を見出せる可能性がある.
このような遠地で揺れを感じた場所について,様々な史資料を用いて可能な限り詳細に緯度・経度を特定し,佐渡での震度分布図だけでなく広域の震度分布図を作成した.また,本研究では予察的に宇佐美・他(2013)による震央を仮定し,様々なモーメントマグニチュード(Mw)に対して震度の距離減衰式(Matsu'ura et al., 2020)用いて予測震度分布図を作成した.そして,史料から推定された震度分布図と予測震度分布図との整合性について考察したところ,Mw6.75程度の場合に,震源域近傍ならびに広域の震度分布を概ね説明可能であることがわかった.