日本地質学会第129年学術大会

講演情報

セッション口頭発表

T14.[トピック]大地と人間活動を楽しみながら学ぶジオパーク

[2oral101-10] T14.[トピック]大地と人間活動を楽しみながら学ぶジオパーク

2022年9月5日(月) 09:30 〜 12:00 口頭第1会場 (14号館501教室)

座長:天野 一男(東京大学空間情報科学研究センター)、松原 典孝(兵庫県立大学 大学院 地域資源マネジメント研究科)

11:45 〜 12:00

[T14-O-10] 奈良大仏建立に使われた鉱物資源とジオパーク

*佃 栄吉1 (1. 産業技術総合研究所地質調査総合センター)

キーワード:ジオパーク、奈良大仏、長登銅鉱山、涌谷町、金、Mine秋吉台ジオパーク、水銀

奈良大仏造営の国家的事業には、当時最高の土木・建築技術、鉱山採掘・精錬技術が必要であり、渡来系を中心とする技術者集団が活躍した。701年大宝律令や718年の養老律令の制定、720年の日本書記の完成など天皇を中心とする中央集権体制が浸透し、全国から資源情報の収集体制が可能となっていた。741年には聖武天皇により諸国に仏教による国家護持のために国分寺の建立が発願され、国家仏教政策が勧められた。当時の政情不安や734年の畿内七道の地震、737年の天然痘大流行などの社会不安が大きく影響したものと考えられている。大仏制作を行った技術者としては大仏師として国中連公麻呂、鋳師として高市大国、高市真麻呂らの名が伝わっているが、この事業全体の総指揮を執ったのが、灌漑事業を主導し土木技術者集団の信頼の厚かった大僧正「行基」である。今回の発表では大仏建立に必要な金属資源に注目し、大仏本体を作る銅、そして鍍金に必要な金と水銀に関連して、日本のジオパークを繋ぐ話題提供を試みる。
 大仏は最初紫香楽宮で造られ始めたが、都を平城京にもどして、新たに大和国の国分寺としての東大寺が造営され、その本尊として大仏が建立された。銅はMine秋吉台ジオパークのジオサイトの一つ長登(ながのぼり)銅山から産出されたことがわかっており、このジオパークの主要地質体である秋吉石灰岩と白亜紀の花こう斑岩の接触交代作用により形成されたものである。長登は奈良に銅を出荷する「ならのぼり」が変化したものと伝えられていたが、昭和63年の東大寺大仏殿西回廊西隣の奈良県立橿原考古学研究所の発掘調査の際に大仏建立時の遺物が大量に発見され、木簡の解読やや青銅塊の化学分析結果により、奈良大仏の原料銅は長登銅山由来のものであることが確実となり、これまでの伝承が実証された。長登銅山の発掘調査によると8世紀初頭には採銅・精錬のための官衙(役所)があったことがわかっており、銅イオンを含む地下水の効果により保存状態のよい木簡が多数見つかっており、さらに多くの木簡が未発掘のまま残されている。
 「続日本紀」には708年に武蔵国秩父郡が和銅(にぎあかがね・自然銅)を献上し、これを喜んだ元明天皇が年号を「和銅」と改めたと記されている。和銅元年には和同開珎が発行され、初めて広く流通した最古の公鋳の日本の貨幣と知られている。 和銅遺跡(秩父ジオパーク)はこの和銅採掘露天掘り跡とされ、出牛-黒谷断層の破砕帯付近に位置している。なお、和同開珎は上記の長登鉱山産出の銅が多く使われたことが判っている。8世紀初頭には日本の各地域で鉱物資源開発が振興されていたことが推察される。
 大仏は745年に建設工事が開始され、鋳造は747年から始まり749年まで2年余りかけて終了している。天平勝宝4年(752年)4月に開眼供養会が行われたが、大仏は完成しておらず、鋳造の不具合を修正したり、補強したり、表面を平滑にする仕上げ作業は755年まで続けている。鍍金作業は開眼供養会の直前752年3月に開始され、757年に作業が完了したと「正倉院文書」に記されている。高さ16mの世界最大の金銅大仏・大仏殿建立という国家プロジェクトは完成までに12年の歳月を要している。熟銅は496㎏使われた。
 「続日本紀」によれば、749年に陸奥国守であった百済王敬福が陸奥国小田郡(宮城県遠田郡涌谷町)で採取した砂金九百両(約13kg)を聖武天皇に献上している。涌谷町にある国史跡黄金山産金遺跡で天平年間に建立された仏堂跡が見つかっている。国内で待望の砂金が発見されたことに聖武天皇は大いに慶び、年号を「天平」から「天平感宝」へと改元した。大伴家持は「すめきろの みよさかえんと あずまなる みちのくやまに くがねはなさく」(万葉集)と歌っている。後の奥州藤原氏の平泉文化を支えた北上山地南部地域の自然金は、肉眼でも確認できる粒の大きさが特徴とされている。ちなみに涌谷町の北東にある三陸ジオパークに属する宮城県気仙沼市北部の鹿折金山で1904年に重さ2.25㎏、含有率 83%の「モンスターゴールド」が発見され、同年開催の米国セントルイス万国博覧会に出品され、青銅メダルを受賞している。元の大きさの6分の1のものが地質標本館で展示されているが、これは故徳永重元氏が上記金塊を発見した父徳永重康(元早稲田大学理工学部教授、元地質学会会長)が残したものを寄贈したものである。
 鍍金は水銀アマルガム法により行われ、使用された錬金の量は146㎏、水銀は820㎏であると「東大寺要録」に記録されている。水銀は丹生族などの技術集団が水銀の採掘・精錬をしながら西南日本外帯の四国や和歌山などの山地を移動していたと考えられ、各地に丹生の地名や神社・遺跡を残している。