14:45 〜 15:00
[T2-O-12] 中央構造線をこえて来たナップ:中新統久万層群の巨礫からの示唆
【ハイライト講演】
世話人よりハイライトの紹介:漸新世半ばから中新世初めまでに,内帯側から中央構造線をこえてナップが移動したことを,松山南方の久万層群の巨礫から論ずる.同層群は中央構造線をまたいで分布する陸成層であり,また,同層群が不整合でおおう始新統ひわだ峠層は,三波川変成岩の地表露出を示す最古の層である.この地域の層序と構造から,ナップテクトニクスは領家帯と三波川帯の接合後の出来事とみなすことができる.※ハイライトとは
キーワード:ナップ、クリッペ、古第三紀、中新世、中央構造線、久万層群、ひわだ峠層
松山南方の久万層群明神層(下部中新統上部~中部中新統最下部)には,珪長質火成岩と非変成の砂岩・泥岩の巨礫・大礫が含まれていて,その供給源は和泉層群およびそれが非整合に覆う領家帯であろうと示唆されていた(e.g., 小林, 1950; 甲藤・平, 1979; 木原, 1985).相田ほか(2021)は最近,そうした礫の岩石学的特徴・ジルコンのU-Pb年代・おおむね南に向かう古流向からこの示唆を検証し,火成岩に関して肯定的な結論を導いている.明神層堆積時には,内帯側が隆起してそれらの礫を供給したという,旧来の描像を相田らは肯定した.しかし,領家花崗岩まで15 km以上離れた場所まで,花崗岩質岩などの大礫・巨礫がいかに運ばれたかは未解決問題として残された.
ここでMTLの北側が隆起して巨礫を供給したというモデルの問題点を挙げる.久万堆積盆は現在残っている限りで南北15 km,東西45 kmの広がりを持ち,北限はMTLの2 kmほど北にある(永井, 1972).花崗岩質岩の巨礫は久万層群分布域の南部までみられるが,そのあたりは領家花崗岩から25 km以上離れている.疑問の第一は,同じ層準で,巨礫が南に向かって減少するとか小さくなるといった傾向はない(相田ほか, 2021).疑問の第二は,花崗岩質岩は亜角礫~亜円礫だが,まれには角礫もみられることである.これらのことは,隆起した内帯の巨大扇状地をつうじて,久万堆積盆に巨礫を供給したという描像に合わない.本研究ではこの問題に答えるため,相田らのデータを再解釈した.また,ジルコンのU-Pb年代により,堆積岩の巨礫が和泉層群起源であることについて,予察的ではあるが肯定的な結果をえた.
この問題にたいして,われわれは次のモデルを提案する.すなわち,起伏の大きな地形の相対的低地に明神層が堆積したことを前提として,(1) 和泉層群と領家帯火成岩からなるナップが明神層堆積前に久万地域に定置し,同層堆積時には複数のクリッペとして残っていたとするモデルである.これなら巨礫や角礫の運搬距離はたかだか数kmですみ,粒径などがMTLからの距離に依存しない.久万層群分布域の中部(久万市街付近+嵯峨山地域)には問題の礫がみられないので,堆積盆の東部と西部にクリッペがあったらしい.(2) このナップは中部始新統ひわだ峠層堆積後に到来した.明神層に不整合で覆われる同層には,火成岩の礫が含まれない(楠橋ほか, 投稿中)からである.ひわだ峠層はデコルマの下盤側にあった.つまり,久万層群から推定されるナップテクトニクスの時期は,中期始新世から前期中新世初期までのいずれかの時期である.ひわだ峠層の固結度は高くなく(楠橋ほか, 投稿中),明神層と同程度なので,ナップの厚さが数kmもあったとは思えない.久万層群堆積時に残っていたクリッペは,その後削剥されなくなった,しかし石鎚層群に覆われて残存するものはあるかもしれない.(3) 周辺地域の地質からみて,ナップの出発地は高縄半島付近だった可能性が高い.(4) 広域の地質を参照すると, ナップテクトニクスは漸新世後期~前期中新世初期におこったと考えられる.その後リフティングが始まった.(5)内帯側の上部白亜系~古第三系の残存状況から見て,ナップテクトニクスの時,MTLがthin-skin変形の主要なランプ断層ではなかった.ランプ断層は和泉層群分布域内とその北側に存在した.
これは長谷川ら(2019)のモデルと似ている.すなわち,漸新世後期~中新世初期に内帯からのナップがMTLを越え,そのとき領家帯と三波川帯のあいだにあった百km規模の地帯が外帯の上に乗り上げて隆起浸食で消失したというモデルである.その結果,両帯がMTLを介して接するようになったと彼らは主張する.ナップテクトニクスが両帯の接合より後の事象であると考える点に,彼らのモデルとの最大の違いがある.長谷川らが対象とした設楽付近とちがって,MTLの北側に和泉層群,南側に古第三系が残存するために,長谷川らとは異なる結論になる.
【文献】長谷川ほか (2019) 地学雑, 128, 391–417;甲藤・平 (1979) 地質ニュース, 293, 12–21;木原 (1985) “スランプ相”の形成とテクトニクス, 133–144;小林 (1950) 四国地方, 朝倉書店; 楠橋ほか (投稿中) 地質雑;永井 (1972) 愛媛大紀要自然, 1, 1–7;相田ほか (2021) 地質雑, 127, 563–574.
ここでMTLの北側が隆起して巨礫を供給したというモデルの問題点を挙げる.久万堆積盆は現在残っている限りで南北15 km,東西45 kmの広がりを持ち,北限はMTLの2 kmほど北にある(永井, 1972).花崗岩質岩の巨礫は久万層群分布域の南部までみられるが,そのあたりは領家花崗岩から25 km以上離れている.疑問の第一は,同じ層準で,巨礫が南に向かって減少するとか小さくなるといった傾向はない(相田ほか, 2021).疑問の第二は,花崗岩質岩は亜角礫~亜円礫だが,まれには角礫もみられることである.これらのことは,隆起した内帯の巨大扇状地をつうじて,久万堆積盆に巨礫を供給したという描像に合わない.本研究ではこの問題に答えるため,相田らのデータを再解釈した.また,ジルコンのU-Pb年代により,堆積岩の巨礫が和泉層群起源であることについて,予察的ではあるが肯定的な結果をえた.
この問題にたいして,われわれは次のモデルを提案する.すなわち,起伏の大きな地形の相対的低地に明神層が堆積したことを前提として,(1) 和泉層群と領家帯火成岩からなるナップが明神層堆積前に久万地域に定置し,同層堆積時には複数のクリッペとして残っていたとするモデルである.これなら巨礫や角礫の運搬距離はたかだか数kmですみ,粒径などがMTLからの距離に依存しない.久万層群分布域の中部(久万市街付近+嵯峨山地域)には問題の礫がみられないので,堆積盆の東部と西部にクリッペがあったらしい.(2) このナップは中部始新統ひわだ峠層堆積後に到来した.明神層に不整合で覆われる同層には,火成岩の礫が含まれない(楠橋ほか, 投稿中)からである.ひわだ峠層はデコルマの下盤側にあった.つまり,久万層群から推定されるナップテクトニクスの時期は,中期始新世から前期中新世初期までのいずれかの時期である.ひわだ峠層の固結度は高くなく(楠橋ほか, 投稿中),明神層と同程度なので,ナップの厚さが数kmもあったとは思えない.久万層群堆積時に残っていたクリッペは,その後削剥されなくなった,しかし石鎚層群に覆われて残存するものはあるかもしれない.(3) 周辺地域の地質からみて,ナップの出発地は高縄半島付近だった可能性が高い.(4) 広域の地質を参照すると, ナップテクトニクスは漸新世後期~前期中新世初期におこったと考えられる.その後リフティングが始まった.(5)内帯側の上部白亜系~古第三系の残存状況から見て,ナップテクトニクスの時,MTLがthin-skin変形の主要なランプ断層ではなかった.ランプ断層は和泉層群分布域内とその北側に存在した.
これは長谷川ら(2019)のモデルと似ている.すなわち,漸新世後期~中新世初期に内帯からのナップがMTLを越え,そのとき領家帯と三波川帯のあいだにあった百km規模の地帯が外帯の上に乗り上げて隆起浸食で消失したというモデルである.その結果,両帯がMTLを介して接するようになったと彼らは主張する.ナップテクトニクスが両帯の接合より後の事象であると考える点に,彼らのモデルとの最大の違いがある.長谷川らが対象とした設楽付近とちがって,MTLの北側に和泉層群,南側に古第三系が残存するために,長谷川らとは異なる結論になる.
【文献】長谷川ほか (2019) 地学雑, 128, 391–417;甲藤・平 (1979) 地質ニュース, 293, 12–21;木原 (1985) “スランプ相”の形成とテクトニクス, 133–144;小林 (1950) 四国地方, 朝倉書店; 楠橋ほか (投稿中) 地質雑;永井 (1972) 愛媛大紀要自然, 1, 1–7;相田ほか (2021) 地質雑, 127, 563–574.