日本地震学会2020年度秋季大会

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Poster session (Oct. 30th)

Regular session » S10. Active faults and historical earthquakes

S10P

Fri. Oct 30, 2020 4:00 PM - 5:30 PM ROOM P

4:00 PM - 5:30 PM

[S10P-07] The 1092 event was possibly a meteorological disaster caused by a massive typhoon

〇Tomoko GOTO1, Ryoichi Nakamura1, Takeo Ishibe2, Satoko Murotani3, Kenji Satake1 (1.Earthquake Research Institute, the Univ. of Tokyo., 2.Association for the Development of Earthquake Prediction, 3.National Museum of Nature and Science)

『新収日本地震史料(第1巻)』(以降、「新収」)には、1092年(ユリウス暦:1092年9月7日、グレゴリオ暦:1092年9月13日)(寛治六年八月三日)に越後で地震・津波が発生したとする史料が複数、掲載されている。『日本被害地震総覧599-2012』(宇佐美・他,2013)では、[柏崎~岩船間の沿岸,海府浦・親不知大津波におそわる.「地震」とあるいう古記あるも、地震の状況を記した古記録未発見.疑わしい.]としている。本研究では、寛治六年八月三日に地震や津波があったのか否か、史資料の悉皆調査による史料学的検討を行い、この事象が大風(台風)であったと解釈する方が妥当である事を指摘する。
 この事象が地震津波であったとする主たる1次史料として、新収『新収日本地震史料(第1巻)』に掲載されている「越後国式内神社考証」ならびに「紫雲寺新田由来記」がある。「越後国式内神社考証」は、「古代・中世の地震・噴火史料データベース」(石橋・古代中世地震史料研究会,2011)に史料等級C(明治時代以降に作成・刊行された記録・文書等。一部に理学的な調査報告書等を含んでいる。)の史料として収録されている。史料には、『(前略)寛治年間、地震大津浪ニテ、寺泊辺ヨリ角田浜新潟辺マデスベテ変地セシ砌、赤塚村民家モ、当今ノ地ニ転居シテ、船江神明ト民家ト遙ニ隔レル故、居村ノ伊邪那岐社自然鎮守神ノ如クニナリ、後吉田家ヨリ赤塚神社号ノ許可ヲ得テ氏神ト致シ候(後略)』と寛治年間に地震大津浪があった事が記述されているが、その詳細は不明であり、日付に関する記述もない。
 「紫雲寺新田由来記」は、江戸時代の干拓により新田開発が進められた旧塩津潟(紫雲寺潟:現在の新潟県新発田市紫雲寺地区および胎内市塩津地区)の由来を記した史料である。新収に『海蔵寺住職快秀附記して曰く七十三代堀川院寛治六年戊辰年大津波大地震蒲原岩船陸地となる』と附記があるが、上述の史料と同様に日付に関する記述はなく、干支についてもい。なお、寛治六年の干支は壬申であり、戊辰は寛治二年のことである。 越中・越後等では貞観五年六月十七日(ユリウス暦:863年7月6日、グレゴリオ暦:863年7月10日)の大地震発生が「日本三代実録」に記録されており、この大地震と寛治六年八月三日の大風・大波(高潮)が混同され、大地震大津波とされた可能性も否定できない。
 この事象の発生日には、諸国において甚大な気象災害が発生した事が記録されている。例えば、一方、同時代史料である「扶桑略記」には『寛治六年壬申(中略)八月三日甲寅,大風,諸國洪水。高潮之間,民烟田畠多以成海。百姓死亡,不可稱計。伊勢太神宮寶殿一宇,并四面廊等,皆為大風顛倒』とあり、大風(台風)により、伊勢神宮を始めとする諸国で洪水や高潮が発生した記述はあるが、地震津波に関する記述は見当たらない。また、「勘仲記」(鎌倉時代後期の公卿藤原兼仲による日記)の弘安十年二月三日ノ条には、『寛治六年八月五日(中略)親定朝臣言上云、今月四日、二宮禰宜等書状云、為今朝大風、太神宮西宝殿傾倒、其角瑞垣同傾倒、自余御門殿舎等傾倚 四面玉垣荒垣等並損、又豊受宮外幣殿、瑞垣御門、四御門並齋王御輿宿、庁舎等皆傾倒者』とあり、同様に大風による被害記述に限られる。更に『十三日祭主親定言上 去四日大風太神宮西賓殿豊受宮東西賓殿傾倒』(「十三代要略」)と、こちらも大風の記述に留まる。
 8~9月は一年を通じて最も台風の発生数ならびに上陸数が多い時期にあたり、死者・行方不明者数5000名以上の甚大な被害を生じた1959年(昭和34年)台風15号(伊勢湾台風)は9月26日夕刻に紀伊半島先端に上陸後、本州中部を縦断し富山~新潟県沖へと抜けていった。寛治六年八月三日の事象が地震津波であれば、何らかの震動(揺れ)やそれによる被害に関する記述が期待されるが、そういった記述が残されていない事から、この事象が地震であったとする明確な根拠はない。残存する史料が限られているが、これらの検討によれば、寛治六年八月三日の越後における事象は地震津波ではなく、むしろ伊勢神宮を始めとする諸国に被害を及ぼした大風(台風)による大波(高潮)であった可能性が高いと結論付けられる。

謝辞:本研究は、文部科学省受託研究「日本海地震・津波調査プロジェクト」の一環として実施されました。記して感謝いたします。