日本地震学会2020年度秋季大会

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Poster session (Oct. 30th)

Regular session » S10. Active faults and historical earthquakes

S10P

Fri. Oct 30, 2020 4:00 PM - 5:30 PM ROOM P

4:00 PM - 5:30 PM

[S10P-09] Discussion on a tsunami struck Chosa villege accompanied with the 1914 Sakurajima earthquake

〇Reiji KOBAYASHI1 (1.Graduate School of Science and Engineering, Kagoshima University)

1. はじめに
1914年1月12日10時過ぎ,桜島の大正噴火と呼ばれる噴火が始まった。噴火開始から約8時間後の18時28分頃,噴火が継続している中,マグニチュード(M)7.1の地震が発生した(以降,1914年桜島地震と呼ぶ)[例えば,今村 (1920),Omori (1922), 宇津 (1979)]。この地震の震源断層についてはまだよく分かっていない。

この地震では津波も観測されている[例えば,長谷川謙 (1914), Omori (1914)]。このことは震源断層が海域に存在している可能性を示す。震源断層の位置についてなんらかの拘束条件が得られることを期待して,本研究では,さまざまな文献における津波の記述を集めてきた。小林(2019, 日本地震学会2019年秋季大会)と小林・他(2020, JpGU-AGU 2020年大会)では,学術的な文献や,噴火についてまとめた書籍,および鹿児島湾沿岸自治体の郷土史誌を調べた。確実に津波があったと思われる場所は,鹿児島市,谷山村,西桜島村であった。

帖佐村(のちに姶良町,現在は姶良市)においても津波や海嘯の記述が見られる[例えば,姶良町郷土誌編集委員会 (1968) 「姶良町郷土誌」]。小林・他(2020)は,松山 (1935) や有川 (1933) から,この津波が暴風による高潮である可能性を示した。
本発表では,帖佐村の津波の記述について,さらに文献を集めて検討を進めた結果を述べる。

2. 帖佐村およびその周辺におけるさまざまな記述
姶良町郷土誌編集委員会 (1968) 「姶良町郷土誌」における津波の記述は,製塩業の節における,「大正三年一月十二日突如桜島爆発が起こり, 続発する大地震のために大津波が襲来して, さしもの丈夫な堤防も忽ち決壊し, 今までの塩田は一瞬にして一面の海と化し, その惨状は想像も出来ない有様となった。」である。これはのちの増補改訂版[姶良町郷土誌改訂編さん委員会 (1995)]でもほぼ同様の内容で記されている。一方,同じ「姶良町郷土誌」でも,護岸工事の節においては,「この間に大正三年一月桜島の爆発の際, 高潮が襲来してその中央部が百余米も欠壊するという惨事を呈した。」と書かれている。どちらも同じ現象を示していると思われるが,前者は津波,後者は高潮と表記された。なお,この日は冬で台風などはなく,海は穏やかだった[例えば,野添 (2012) p88]。高潮については,低気圧の吸い上げや海岸への風の吹き寄せが原因とされる。したがって,帖佐村での現象は高潮ではないと言える。

東に隣接する加治木町に関しては,「桜島大正噴火誌」[鹿児島県 (1914)]に,津波を警戒して消防手に30分おきに監視させた,という記述がある。しかし,津波を見たという記述はなかった。本田 (1914)の「桜島大噴火と加治木」という記事によると「……海嘯は幸に來なかった併し今夕來る夜中に來ると流説紛々たる……」という記述があり,津波はなかったと認識されている。帖佐村で大津波とされる津波があれば,加治木町で監視をしていた中で津波が見られないのは不自然である。

帖佐村の周辺では,地盤沈下による塩田への海水流入の記述も見られる。帖佐村においても松山 (1935) において「櫻島大噴火による沈降現象と暴風による津浪現象とが鹽田の堤防數十間を破壊して, 一面の蒼海と化し, その浸水は松原民家を脅かすに至り生業を奪ひ, 目も當てられない惨状を呈したのであつた。」と書かれている。ここでの暴風による津浪現象というのは,当日の話ではなく,その年の夏の暴風による高潮のようである[例えば,姶良町郷土誌改訂編さん委員会 (1995) p582]。沈降現象時に海水流入が起こったかどうかはこの記事のみからでは分からない。地盤沈下に関しては,水準測量により鹿児島湾北部において観測されている[例えば,Omori (1920)]。

3. まとめ
以上のことから,帖佐村では,次のことが起こったと考えられる。地震発生直後,津波の襲来はなかった。地盤沈下が起こり,見かけ上海水面が上昇した。このことが,文献によっては,津浪と表記されたり,高潮と表記されたりした。その年の夏,暴風によって高潮に襲われ海水が流入し塩田は壊滅的な被害を受けた。