[PE22] 科学史に学んだ「科学の2相モデル」が科学教育に提起する問題
科学教育は今ある科学への「順応教育」でしかないのか
キーワード:科学教育, 科学の2相モデル, トマス・クーン
問 題
坂本美紀ら(2016)の探究学習のデザインが抱える問題を考察する。まずそれは「知識ベース」の探究活動として構想されており,教えられた知識は疑うな,不思議に思えても教科書通りに考えよ,と強制するデザインとなっている。が,これは「科学の本質」からすると問題だ。というのも,科学は(逆説的にも)可謬性を認めて自己否定の可能性を内在化させているからこそ,「真理の担い手」として評価されているからだ。疑うことが罪となる宗教的権威とは異なっている。また坂本らは「法則が適用範囲を持っていること」を教えようとする一方で,法則からは容易に予測できない現象に直面した学習者が「適用範囲からはみ出したのかもしれない」「前提条件の再考が必要なのかもしれない」と推論することを「科学的でない」として一蹴する。これもおかしい。更に坂本らが持つように思われる「科学の進歩主義的累積モデル」も批判されよう。科学は科学史が示すように,知識の部分的修正の積み重ねだけでは前進しない。本稿では,科学教育が前提とすべき「望ましい科学論」について考察する。論じられる科学論はその歴史性を免れ得ないが,科学論を考慮しない科学教育論と比べ一歩前進であると考える。
考察1「科学には革命的局面も存在する」(科学の2相モデル)
科学を「累積する修正の1相」で捉えたのは進歩主義史観だったが,科学史家T.クーンはこれを「革命によるパラダイム創出とそのパラダイムに従う通常科学との2相モデル」に改めた(1962/1971)。「1相モデル」は科学史の連続性を強調するが,クーンのモデルはパラダイム間の非連続性を強調する。革命は,任意のパラダイム(「通常科学」,以下「NS」)内での「変則事例」(アノマリ)の集積により始まり,それらアノマリの説明を目指す複数のパラダイム候補の勃興を経てあるパラダイムが定着することで終了し,次なるNSが動き出す。このモデルは科学革命の唯一のモデルではないが―既存パラダイムのアノマリとは無関係に生じた「門外漢だからこその着想」による革命も存在する(例,「大陸移動説」)―対立や論争,パラダイムの(全面的・部分的)転覆といった「否定の作用」が科学の前進には欠かせないことを歴史学的に理論化したクーンのモデルは,科学史における前進だった。科学史上の新旧パラダイムが示す「説明原理」の大転換(概念的断絶)の例は,以下である。これら「断絶」が革命の革命性の一面を定義する。「地動説」や「大陸移動説」で「静→動」,「光量子仮説」で「波動の連続性→量子の非連続性」,「量子力学」で「決定論→確率論」,「進化論」で「創造主→自然選択」,「癌発生の微細環境依存説」で「本質論→状況論」。(断絶前後の2項の関係は対立・矛盾のそれであり,仮に「統合の視点」によって繋ぐことができたとしても,「微視的連続性」によっては困難だ)。アノマリは「実務家による通常科学」から発生するが,アノマリに対処できるのは「革命家」である。科学にダイナミズムを維持しようとするなら,実務家のみならず革命家をも排除しない科学教育を考えるべきだろう。
考察2「何が革命家をつくるのか」
確認できた限りでは,革命家はいずれも「反骨」「独立」の人だった。「権威を無闇に尊敬することは真理にとって最大の敵である」(A.アインシュタイン)。「私はいつも『枠の外』で考えたかったの」(M.ビッセル)。A.ウェゲナーも晩年変人呼ばわりされながら,終生主張を変えなかった。M.プランクがアインシュタインに,F.テイラーがウェゲナーになり損ねたには訳がある。革命には「反権威」の思想や精神も欠かせなかったのだ。既に「化石」(中山茂)となった科学から「正しい問いの立て方」を取り出して教え込むだけの「順応教育」では,科学を飛躍的に前進させる革命家は育てられない。学習科学が追究する「深い学び」が,「権威が貸与する知識」について「その発生プロセスを批判的に吟味すること」を要請し,「疑うなと言う権威は疑え」という学習観を持つことは,「知識ベース」の探究学習研究者達(坂本美紀や藤村宣之)が「学びの深さ」を単に「博識や精緻化」と等置するかに見えることとは対照的である。革命家が持つ今ひとつの特徴は,彼らが「アイデアで跳べる人」だったということだ。「経験をいくら集めても理論は生まれない」(アインシュタイン)。アインシュタインの思考の特徴は,量からすれば圧倒的だった経験的事実には縛られず,注目すべき少数の事象に焦点を当てて(発見法的に)「Aを前提とすればうまくゆくA」を発想できた点にある(吉田伸夫,A.パイス)。(因みに,彼のアイデアのテストには10年~100年が必要だった。実験はいつも直ぐに可能なわけではない)。ウェゲナーやC.ダーウィンも(間違いを含めて)アイデア豊富な人だった。革命家達は間違えなかったから革命家になり得たのではなく,「枠の外」での旺盛な思考を躊躇しなかったからこそ革命が起こせた。彼らのアイデアの中から「残った」ものが後に「科学」と呼ばれ,「残らなかった」ものは単に忘れ去られた。かのG.ガリレイも間違いをおかしたが,一部の科学史家を除いてもう知る人はいない。つまりある意味「科学は結果論」なのである。未だ定型化されていない「未然の科学」(筆者)にも誕生の機会を確保するには,「今正しいとされる科学的推論や方法」を教え込むだけでは不十分であり,反効果的でさえあるだろう。方法は問題に従属し,問題は歴史を通じて変化する。学習者の疑問やアイデアを探究授業を標榜しつつ否定することは,避けるべきである。
考察3「教室の中の革命家達」
ところで科学を前進させるのはアイデア先行の革命家達だけではない。クーンはNSにも役割を与えた。だが「知識ベース」の探究授業が「科学」を名乗りながら「教室の革命家達」を否定評価する傾向にあることは問題視しておくべきだろう。教室の革命家達は坂本らによって「科学的な問いが立てられない子」と評価されてしまったが,この評価は正当化が難しい。というのも,その子らの推論は「法則のアノマリと見える現象」に直面した際に科学者が見せる7通りの反応(これを学習者も共有する。W.Brewer,1994;C.Chinn,1998)にも含まれる,論理的には妥当な推論「否定式」であったからである(「p→q」なら「~q→~p」。今「~q」,よって「~p」)。坂本らは現象がアノマリではなく前提も疑う必要がないことを後知恵で知っていたが,これを知らない子ども達には全ての可能性が開かれており,否定式に基づく前提の問い直しは却下されるべきものではなかった。子ども達は問い掛けた上でこの問題における問い直しの不要を発見すればよかったのであり,その発見をいつ一般化するしないは子ども達の判断だった。ところで,前提についての思考を封じ込める科学は「手順化」してしまう危険性が高い。クーンはNSのテクニカルな側面を評価したし,NS的研究の成果と可能性は「否定し難いもの」(江上不二夫)ではあるのだが,「科学の手順化」に両義的感情を抱く科学者も存在する(例,佐藤文隆)。であるのに,失敗もあった探究の過程を省いた教科書や,想定内の事象の約束された確認に終始する演示実験で育つと,科学教育研究者でさえ,実際の科学には不可避な紆余曲折を評価できず,探究活動の諸前提を問うことは忘れ,科学を今ある形で受容し,利用し活用するだけの存在となってしまう(科学の手順化)。だが科学は成功例の受容だけでは前進しない。「偶像破壊」(クーン)にも依拠している(「科学の本質的緊張」)。科学についての哲学的反省が必要とされていないか。
結 語
科学的探究は「教科書やパラダイム」の内化だけを意味しない。「科学」や「探究」を語りつつ「正しい科学」を「強要」し,前提を問う「小さな革命家」達を軽視するのは,矛盾である。
坂本美紀ら(2016)の探究学習のデザインが抱える問題を考察する。まずそれは「知識ベース」の探究活動として構想されており,教えられた知識は疑うな,不思議に思えても教科書通りに考えよ,と強制するデザインとなっている。が,これは「科学の本質」からすると問題だ。というのも,科学は(逆説的にも)可謬性を認めて自己否定の可能性を内在化させているからこそ,「真理の担い手」として評価されているからだ。疑うことが罪となる宗教的権威とは異なっている。また坂本らは「法則が適用範囲を持っていること」を教えようとする一方で,法則からは容易に予測できない現象に直面した学習者が「適用範囲からはみ出したのかもしれない」「前提条件の再考が必要なのかもしれない」と推論することを「科学的でない」として一蹴する。これもおかしい。更に坂本らが持つように思われる「科学の進歩主義的累積モデル」も批判されよう。科学は科学史が示すように,知識の部分的修正の積み重ねだけでは前進しない。本稿では,科学教育が前提とすべき「望ましい科学論」について考察する。論じられる科学論はその歴史性を免れ得ないが,科学論を考慮しない科学教育論と比べ一歩前進であると考える。
考察1「科学には革命的局面も存在する」(科学の2相モデル)
科学を「累積する修正の1相」で捉えたのは進歩主義史観だったが,科学史家T.クーンはこれを「革命によるパラダイム創出とそのパラダイムに従う通常科学との2相モデル」に改めた(1962/1971)。「1相モデル」は科学史の連続性を強調するが,クーンのモデルはパラダイム間の非連続性を強調する。革命は,任意のパラダイム(「通常科学」,以下「NS」)内での「変則事例」(アノマリ)の集積により始まり,それらアノマリの説明を目指す複数のパラダイム候補の勃興を経てあるパラダイムが定着することで終了し,次なるNSが動き出す。このモデルは科学革命の唯一のモデルではないが―既存パラダイムのアノマリとは無関係に生じた「門外漢だからこその着想」による革命も存在する(例,「大陸移動説」)―対立や論争,パラダイムの(全面的・部分的)転覆といった「否定の作用」が科学の前進には欠かせないことを歴史学的に理論化したクーンのモデルは,科学史における前進だった。科学史上の新旧パラダイムが示す「説明原理」の大転換(概念的断絶)の例は,以下である。これら「断絶」が革命の革命性の一面を定義する。「地動説」や「大陸移動説」で「静→動」,「光量子仮説」で「波動の連続性→量子の非連続性」,「量子力学」で「決定論→確率論」,「進化論」で「創造主→自然選択」,「癌発生の微細環境依存説」で「本質論→状況論」。(断絶前後の2項の関係は対立・矛盾のそれであり,仮に「統合の視点」によって繋ぐことができたとしても,「微視的連続性」によっては困難だ)。アノマリは「実務家による通常科学」から発生するが,アノマリに対処できるのは「革命家」である。科学にダイナミズムを維持しようとするなら,実務家のみならず革命家をも排除しない科学教育を考えるべきだろう。
考察2「何が革命家をつくるのか」
確認できた限りでは,革命家はいずれも「反骨」「独立」の人だった。「権威を無闇に尊敬することは真理にとって最大の敵である」(A.アインシュタイン)。「私はいつも『枠の外』で考えたかったの」(M.ビッセル)。A.ウェゲナーも晩年変人呼ばわりされながら,終生主張を変えなかった。M.プランクがアインシュタインに,F.テイラーがウェゲナーになり損ねたには訳がある。革命には「反権威」の思想や精神も欠かせなかったのだ。既に「化石」(中山茂)となった科学から「正しい問いの立て方」を取り出して教え込むだけの「順応教育」では,科学を飛躍的に前進させる革命家は育てられない。学習科学が追究する「深い学び」が,「権威が貸与する知識」について「その発生プロセスを批判的に吟味すること」を要請し,「疑うなと言う権威は疑え」という学習観を持つことは,「知識ベース」の探究学習研究者達(坂本美紀や藤村宣之)が「学びの深さ」を単に「博識や精緻化」と等置するかに見えることとは対照的である。革命家が持つ今ひとつの特徴は,彼らが「アイデアで跳べる人」だったということだ。「経験をいくら集めても理論は生まれない」(アインシュタイン)。アインシュタインの思考の特徴は,量からすれば圧倒的だった経験的事実には縛られず,注目すべき少数の事象に焦点を当てて(発見法的に)「Aを前提とすればうまくゆくA」を発想できた点にある(吉田伸夫,A.パイス)。(因みに,彼のアイデアのテストには10年~100年が必要だった。実験はいつも直ぐに可能なわけではない)。ウェゲナーやC.ダーウィンも(間違いを含めて)アイデア豊富な人だった。革命家達は間違えなかったから革命家になり得たのではなく,「枠の外」での旺盛な思考を躊躇しなかったからこそ革命が起こせた。彼らのアイデアの中から「残った」ものが後に「科学」と呼ばれ,「残らなかった」ものは単に忘れ去られた。かのG.ガリレイも間違いをおかしたが,一部の科学史家を除いてもう知る人はいない。つまりある意味「科学は結果論」なのである。未だ定型化されていない「未然の科学」(筆者)にも誕生の機会を確保するには,「今正しいとされる科学的推論や方法」を教え込むだけでは不十分であり,反効果的でさえあるだろう。方法は問題に従属し,問題は歴史を通じて変化する。学習者の疑問やアイデアを探究授業を標榜しつつ否定することは,避けるべきである。
考察3「教室の中の革命家達」
ところで科学を前進させるのはアイデア先行の革命家達だけではない。クーンはNSにも役割を与えた。だが「知識ベース」の探究授業が「科学」を名乗りながら「教室の革命家達」を否定評価する傾向にあることは問題視しておくべきだろう。教室の革命家達は坂本らによって「科学的な問いが立てられない子」と評価されてしまったが,この評価は正当化が難しい。というのも,その子らの推論は「法則のアノマリと見える現象」に直面した際に科学者が見せる7通りの反応(これを学習者も共有する。W.Brewer,1994;C.Chinn,1998)にも含まれる,論理的には妥当な推論「否定式」であったからである(「p→q」なら「~q→~p」。今「~q」,よって「~p」)。坂本らは現象がアノマリではなく前提も疑う必要がないことを後知恵で知っていたが,これを知らない子ども達には全ての可能性が開かれており,否定式に基づく前提の問い直しは却下されるべきものではなかった。子ども達は問い掛けた上でこの問題における問い直しの不要を発見すればよかったのであり,その発見をいつ一般化するしないは子ども達の判断だった。ところで,前提についての思考を封じ込める科学は「手順化」してしまう危険性が高い。クーンはNSのテクニカルな側面を評価したし,NS的研究の成果と可能性は「否定し難いもの」(江上不二夫)ではあるのだが,「科学の手順化」に両義的感情を抱く科学者も存在する(例,佐藤文隆)。であるのに,失敗もあった探究の過程を省いた教科書や,想定内の事象の約束された確認に終始する演示実験で育つと,科学教育研究者でさえ,実際の科学には不可避な紆余曲折を評価できず,探究活動の諸前提を問うことは忘れ,科学を今ある形で受容し,利用し活用するだけの存在となってしまう(科学の手順化)。だが科学は成功例の受容だけでは前進しない。「偶像破壊」(クーン)にも依拠している(「科学の本質的緊張」)。科学についての哲学的反省が必要とされていないか。
結 語
科学的探究は「教科書やパラダイム」の内化だけを意味しない。「科学」や「探究」を語りつつ「正しい科学」を「強要」し,前提を問う「小さな革命家」達を軽視するのは,矛盾である。