日本地質学会第130年学術大会

講演情報

セッション口頭発表

G-4. ジェネラル サブセッション地学教育・地学史

[2oral411-14] G-4. ジェネラル サブセッション地学教育・地学史

2023年9月18日(月) 15:00 〜 16:00 口頭第4会場 (共北25:吉田南総合館北棟)

座長:矢島 道子(東京都立大学)、川村 教一(兵庫県立大学大学院地域資源マネジメント研究科)

15:15 〜 15:30

[G4-O-2] 新島襄の学んだ地質学

*林田 明1 (1. 同志社大学)

キーワード:新島襄、アーモスト大学、エドワード・ヒッチコック、自然神学、同志社

同志社の創立者,新島襄(1843–1890)は22歳から約10年を海外で過ごした。彼がキリスト教神学に加えて数学や自然科学を学びアーモスト大学で理学士の称号を得たこと,鉱物学や地質学に終生興味を持っていたことはよく知られている(矢島・林田, 2017など)。新島がニューイングランドで鉱物や岩石の標本を採集し,鉱山などを見学したことは彼の手紙や日記から明らかである。彼が学んだ科目の教科書やノートについては,同志社大学工学部に在籍された島尾永康教授(島尾, 1989など)やアーモスト大学のダリア・ダリエンゾ博士(ダリエンゾ, 2007)などによって報告されている。しかし,地質学の授業に関しては1869–70年の秋学期に履修したと推定されていたものの,教科書やノートは確認されておらず,その内容は詳らかになっていなかった。
 今回,同志社大学図書館に貴重書として保管されていた“Elementary geology”(Edward Hitchcock and Charles H. Hitchcock, 31st ed., 1968)を閲覧する機会を得た。これは,新島旧邸から同志社社史資料センターに移管された蔵書群とは別に八重夫人によって同志社に寄贈されたものらしく,これまでの調査対象に含まれていなかった。表紙見返しには新島のサインや日付(1868年9月24日),“Hoosac Tunnel”と記された地質断面の素描があり,本文に多くの傍線や書き込みがある。本文は“Description and Dynamical Geology” “Plaeontology” “Bearing of geology upon religion” “Economical geology” “North American geology”の5部からなり,最初の2部が全430ページのうち376ページを占める。裏表紙に貼り付けられている“Topics for the Examination of the Class of 1870 in Amherst College”という紙片の問題もほぼすべてが前半2部に関したものである。ただし,本文には直接言及されていない“Hoosac Tunnel”(マサチューセッツ州西部で建設中だった鉄道トンネル)や“Flynt’s quarry at Monson”(アーモスト南方約30 kmにあった花崗岩の砕石場)で観察される地質学的事実の記述を求める問題が含まれる。
 “Elementary geology”の初版はエドワード・ヒチコック(1793–1864)によって1940年に出版され,息子チャールズとの共著となった31版(1860年)まで版を重ねた。ヒチコックはアメリカの地質学の基礎を築いた人物として知られ,1826年から1864年までアーモスト大学の教授あるいは学長として地質学や自然神学の授業を担当した。新島がアーモストに来たのは1867年であったが,大学にはヒッチコックが収集した化石や岩石鉱物の標本が多数所蔵されており,新島が学んだ自然神学の講義は彼の著書“The religion of geology and its connected sciences”(1851年初版)に基づくものであった。それには地質学によって明らかにされる自然の成り立ちが聖書の記述と一致することが主張されている。“Elementary geology”の第3部でも,創世記の天地創造の記述と地質時代の歴史との対比が試みられ,「啓示を信じる者たちは(中略)この科学が自然宗教と啓示宗教の両方に強力な助けを与えるという神の摂理に感謝すべき」と述べられている。19世紀後半にはチャールズ・ライエル(1797–1875)やチャールズ・ダーウィン(1809–1882)の活躍によって自然科学がキリスト教から切り離されていったが,宗教色の強いニューイングランドでは地質学と自然神学が分かち難く結びついていたことが窺える。
 新島は自然神学と結びついた地質学を学びながら,それが社会の発展のために有用な学問であることも認識していた。1874年11月に帰国した新島は日本でも鉱山の見学や化石の採集を行い,同志社英学校に地質学を含む自然科学の科目を設けた。さらに「基督教の徳育を奨励し、最も善良なる理学の教育を授けん」として同志社にハリス理化学校が設置されたが,新島の没後数年でその運営は打ち切られた。彼の願いは叶わなかったが,その活動は,ベンジャミン・ライマン(1873年来日)やエドムント・ナウマン(1875年来日)とは異なる道筋による日本への地質学移入の試みと位置付けることができる。

引用文献
ダリエンゾ ダリア, 北垣宗治(訳),2007, 新島研究, 98, 342–427.
島尾永康,1986,科学史研究Ⅱ, 25, 83–88.
矢島道子,林田 明,2017,日本地質学会News, 20(8), 5–6.