[T3-P-4] 相模トラフがつくる海岸地形と東と西をつなぐ歴史のみちが生んだ日本の投げ釣り
キーワード:投げ釣り、相模トラフ、急深砂浜海岸、宿場、木地屋
1. はじめに
日本の海釣りの1つ投げ釣りは、シロギスを対象魚に大磯と小田原で発祥、発展したことは釣り人に広く知られている。一方、大磯から小田原に続く砂浜は、急深な地形となっているが、これはプレート境界である相模トラフが間近に迫っているためだが、これも地形、地質を学んだ人には広く知られている。ジオパークの役割の1つに、異分野の常識を結びつけ地域のストーリーを作る事がある。本発表はこの2つの結び付きについて述べる。
2. 日本の投げ釣り
投げ釣りは砂浜海岸で錘を使ってエサを投げる釣りを指し、地中海沿岸、アメリカ東海岸など世界各地で行われている。しかし、日本では遠投(100~200m)が前提になる点で特異である。これは対象魚が小型で、抵抗の少ない細糸を使用するためで、遠投で広範囲を探る投げ釣りが行われている。よって錘、糸、竿、リール等には、遠投性能向上の工夫がなされ、投擲技術も愛好者のクラブなどで受け継がれ進化している。またメーカー、自治体等の主催で、釣り大会も開催され、最近では女性の参加者も増えている。
3. 急深な砂浜海岸の存在
大磯と小田原は、箱根ジオパークのテーマである東と西をつなぐ歴史のみち=東海道の隣り合う宿場町で、ともに明治以降は著名人の別荘が建ち、海に近く漁港もある。小田原は箱根ジオパークのエリア内、大磯はエリア外である。 砂浜海岸は一般的に遠浅で、鳥などの天敵に狙われやすいので魚が近寄らない、波で仕掛けが絡みやすい、など本来釣りには不向きである。相模湾の砂浜海岸は大磯の照ヶ崎を境に大きく変化し、照ヶ崎以西は、酒匂川系レキが目立つ急深な砂浜海岸になり、波打ち際の直ぐ沖で2m近い水深がある。これは小田原まで続く(図1)。背後の地形は大磯丘陵~酒匂川低地と変化し、沖には大磯海脚があるが、波打ち際の形状はそれらの影響が見られず、相模トラフまで続く急深海岸をなす。
4. 海岸の漁業
急深な大磯から小田原の海岸は、波打ち際まで多くの魚が回遊するため、江戸時代頃よりシラス中心とした地引き網漁が盛んに行われていた。網を上げた直後は、こぼれた魚を狙って多くの魚が集まるため、漁師は大縄(オオナワ)と呼ぶ釣りを行っていた。3間半~4間の竹竿にその2~3倍の長さの太い麻縄(大縄)を付け波打ち際に立ち、濡れた麻縄の重さで擬餌針を投げては引く、体力と技術を要する釣りであった[1)]。カツオの一本釣りに似た釣りであるが、マグロ、カツオ、ブリ、スズキ、ヒラメなどが漁獲された。一方、遊漁の要素が強いシロギスを主な対象としたエサ釣りも行われていたが、錘を手や竹棒に引っかけて投げる原始的な方法がとられていた[2)]。急深な海岸なのでこれでも魚が釣れ、大正期まで続いた。
5.車釣竿の発明
遊漁としての釣りを楽しむには、時間的、金銭的余裕が必要である。宿場町として発展した大磯と小田原は、多くの別荘が建ち、余裕のある人が多く訪れた。その中で、昭和2年、大磯のみとめ屋釣具店の尾上榮吉氏が、現在の日本の投げ釣り道具の原点になる木製回転式リール(大磯式リール)で投げる「車釣竿」(長さ2間、竹製)を発明した[1)]。投げる際のリール操作は熟練を要するが、竿の弾力で投げるので、少ない力で遠投が可能となり、手投げでは届かないところにいるシロギス等が釣れるようになった。リール直径は3寸半、当時木地屋は大磯に無く、平塚の1軒で生産されていた。全国から購入者が来たが、間もなく木地屋で勝る小田原で、より遠投性を追求した直径5寸の小田原式リールや2間1尺の竿が生産されるようになった[1)]。これらの回転式リールは戦後まで使用された。
6. 戦後の発展
昭和22、3年頃、大磯の樺山氏がアメリカから金属製のスピニングリールという回転式ではないリールを持ち込んで釣りをしていた。このリールは糸がほつれて出て行くので回転式リールより投げやすく、巻き取りも速いので釣りの効率が上がった。このリールに着目したのが東京の植野精工(後のオリムピック釣具)であった。みとめ屋釣具店と試作品を研究しながら、昭和29年にサーフ93という遠投性に優れたヒット商品が誕生した。釣り竿も竹からグラスファイバー製に代わり、小田原の小田原一鱚氏が中心になり丈夫で遠投性の高い製品が生まれるようになった[1),2)]。昭和50年代からはより軽く反発力の強いカーボンファイバー製の製品が主体になり、リールも改良されていった。製品の進化は続き、試投会と呼ばれる新製品のプロモーションは、大磯や小田原の海岸で現在も行われている。
引用文献
1)みとめ屋釣具店 尾上正一氏の聞き取り調査(2023年5月27日)
2)フィッシング編集部,1985, 特別対談ザ・小田原一鱚. 別冊フィッシング, 32, 廣済堂出版,東京.
図1 小田原海岸(背後は箱根火山)
日本の海釣りの1つ投げ釣りは、シロギスを対象魚に大磯と小田原で発祥、発展したことは釣り人に広く知られている。一方、大磯から小田原に続く砂浜は、急深な地形となっているが、これはプレート境界である相模トラフが間近に迫っているためだが、これも地形、地質を学んだ人には広く知られている。ジオパークの役割の1つに、異分野の常識を結びつけ地域のストーリーを作る事がある。本発表はこの2つの結び付きについて述べる。
2. 日本の投げ釣り
投げ釣りは砂浜海岸で錘を使ってエサを投げる釣りを指し、地中海沿岸、アメリカ東海岸など世界各地で行われている。しかし、日本では遠投(100~200m)が前提になる点で特異である。これは対象魚が小型で、抵抗の少ない細糸を使用するためで、遠投で広範囲を探る投げ釣りが行われている。よって錘、糸、竿、リール等には、遠投性能向上の工夫がなされ、投擲技術も愛好者のクラブなどで受け継がれ進化している。またメーカー、自治体等の主催で、釣り大会も開催され、最近では女性の参加者も増えている。
3. 急深な砂浜海岸の存在
大磯と小田原は、箱根ジオパークのテーマである東と西をつなぐ歴史のみち=東海道の隣り合う宿場町で、ともに明治以降は著名人の別荘が建ち、海に近く漁港もある。小田原は箱根ジオパークのエリア内、大磯はエリア外である。 砂浜海岸は一般的に遠浅で、鳥などの天敵に狙われやすいので魚が近寄らない、波で仕掛けが絡みやすい、など本来釣りには不向きである。相模湾の砂浜海岸は大磯の照ヶ崎を境に大きく変化し、照ヶ崎以西は、酒匂川系レキが目立つ急深な砂浜海岸になり、波打ち際の直ぐ沖で2m近い水深がある。これは小田原まで続く(図1)。背後の地形は大磯丘陵~酒匂川低地と変化し、沖には大磯海脚があるが、波打ち際の形状はそれらの影響が見られず、相模トラフまで続く急深海岸をなす。
4. 海岸の漁業
急深な大磯から小田原の海岸は、波打ち際まで多くの魚が回遊するため、江戸時代頃よりシラス中心とした地引き網漁が盛んに行われていた。網を上げた直後は、こぼれた魚を狙って多くの魚が集まるため、漁師は大縄(オオナワ)と呼ぶ釣りを行っていた。3間半~4間の竹竿にその2~3倍の長さの太い麻縄(大縄)を付け波打ち際に立ち、濡れた麻縄の重さで擬餌針を投げては引く、体力と技術を要する釣りであった[1)]。カツオの一本釣りに似た釣りであるが、マグロ、カツオ、ブリ、スズキ、ヒラメなどが漁獲された。一方、遊漁の要素が強いシロギスを主な対象としたエサ釣りも行われていたが、錘を手や竹棒に引っかけて投げる原始的な方法がとられていた[2)]。急深な海岸なのでこれでも魚が釣れ、大正期まで続いた。
5.車釣竿の発明
遊漁としての釣りを楽しむには、時間的、金銭的余裕が必要である。宿場町として発展した大磯と小田原は、多くの別荘が建ち、余裕のある人が多く訪れた。その中で、昭和2年、大磯のみとめ屋釣具店の尾上榮吉氏が、現在の日本の投げ釣り道具の原点になる木製回転式リール(大磯式リール)で投げる「車釣竿」(長さ2間、竹製)を発明した[1)]。投げる際のリール操作は熟練を要するが、竿の弾力で投げるので、少ない力で遠投が可能となり、手投げでは届かないところにいるシロギス等が釣れるようになった。リール直径は3寸半、当時木地屋は大磯に無く、平塚の1軒で生産されていた。全国から購入者が来たが、間もなく木地屋で勝る小田原で、より遠投性を追求した直径5寸の小田原式リールや2間1尺の竿が生産されるようになった[1)]。これらの回転式リールは戦後まで使用された。
6. 戦後の発展
昭和22、3年頃、大磯の樺山氏がアメリカから金属製のスピニングリールという回転式ではないリールを持ち込んで釣りをしていた。このリールは糸がほつれて出て行くので回転式リールより投げやすく、巻き取りも速いので釣りの効率が上がった。このリールに着目したのが東京の植野精工(後のオリムピック釣具)であった。みとめ屋釣具店と試作品を研究しながら、昭和29年にサーフ93という遠投性に優れたヒット商品が誕生した。釣り竿も竹からグラスファイバー製に代わり、小田原の小田原一鱚氏が中心になり丈夫で遠投性の高い製品が生まれるようになった[1),2)]。昭和50年代からはより軽く反発力の強いカーボンファイバー製の製品が主体になり、リールも改良されていった。製品の進化は続き、試投会と呼ばれる新製品のプロモーションは、大磯や小田原の海岸で現在も行われている。
引用文献
1)みとめ屋釣具店 尾上正一氏の聞き取り調査(2023年5月27日)
2)フィッシング編集部,1985, 特別対談ザ・小田原一鱚. 別冊フィッシング, 32, 廣済堂出版,東京.
図1 小田原海岸(背後は箱根火山)